- Bay_yamashiro
- 15998
- 33
- 0
- 0
読売ジャイアンツ 1934年に『大日本東京野球倶楽部』というチーム名で発足。 プロ野球チームで最も歴史のチームであり、最多の22回の日本一、45回のリーグ優勝という他を圧倒する実績を引っさげ、まさに『球界の盟主』という名を欲しいがままに、数多くの名選手を生み出しています。
2016-01-11 21:22:48常に世間の話題の中心であり続け、常勝であり続ける。 そんな球界の盟主に対して当然、他球団はエース級をぶつけ続け、多くの大投手たちがその前に立ちふさがり続けました。
2016-01-11 21:24:10国鉄スワローズに所属した金田正一投手、ドラゴンズの星野仙一投手、タイガースの村山実投手、カープの長谷川良平投手。いずれもジャイアンツから30勝以上を挙げた名投手達です。 しかし、この中で勝ち越せたのは星野投手、ただ一人のみ(35勝31敗)
2016-01-11 21:26:03これらの大投手でもジャイアンツの前では惜しくも敗れていった中、V9時代のジャイアンツに弱小チームを背に立ち向かっていった投手がいました。 対ジャイアンツ戦歴代2位の51勝、そして47敗と50勝以上を挙げ勝ち越した唯一にして最強の『ジャイアンツキラー』
2016-01-11 21:28:16しかし、この投手、実は大のジャイアンツファンでジャイアンツ入団を熱望していました。 ー選手人生を通して強烈な憧れと、強烈なコンプレックスを持って挑んだジャイアンツ戦
2016-01-11 21:29:18『最強のジャイアンツキラー』平松政次 小話 pic.twitter.com/BMNnSYDl7o
2016-01-11 21:30:271965年第37回選抜高等学校野球大会決勝 岡山東商業高等学校のエースとして出場した平松政次投手は絶好調でした。 39イニング連続無失点記録を樹立し、決勝では後にタイガースで2000本安打を達成する藤田平選手擁する和歌山商を下し、見事優勝を果たしました。
2016-01-11 21:31:20この年より行われることになったドラフト会議。 その第1回の目玉選手として当然、優勝投手の平松投手の名が上がり、中日ドラゴンズが4位指名。 しかし、この指名を拒否した平松投手は社会人野球の名門日本石油(現JX-ENEOS)に入社することとなります。
2016-01-11 21:32:33実はドラゴンズの指名を拒否したのには大きな理由がありました。 少年時代から大ファンだった読売ジャイアンツへの入団。 そして何より、自分が野球を始めるきっかけとなった長嶋茂雄選手と同じチームでプレーするという大きな野望があったからです。
2016-01-11 21:33:36日本石油でも1年目からエースとして活躍し、プロからの評価はうなぎのぼりでした。 そして1966年の翌第2回目のドラフト会議(当時は社会人野球の2年縛りは無し)前には意中の球団であったジャイアンツのスカウトから直々に1位指名の確約を受けます。 まさに順風満帆な野球人生。
2016-01-11 21:35:39この年、長嶋茂雄選手、王貞治選手らスター選手を擁するジャイアンツは2年連続の日本一を果たし、まさに黄金期へ突入しようとしていました。 そんなジャイアンツに入団できる。 平松投手の喜ぶさまは想像するに難くないでしょう。
2016-01-11 21:37:03運命の第2回ドラフト会議。 多くの記者と同僚に囲まれ、日本石油の記者会見室でジャイアンツからの1位指名を待つ平松投手。 下位のチームから1位指名が発表され、他チームからの平松投手の指名はなし。 いよいよジャイアンツの指名発表。和紙に書かれたその名前は・・・
2016-01-11 21:38:39『槌田誠』 そこに平松政次の名は無く、同郷の立教大学の正捕手の名前がありました。 「確約を反故にされた」 ジャイアンツからの1位指名を待ち望んでいた周囲からの驚きと哀れみの視線の中、平松投手は大きなショックを受けることとなります。
2016-01-11 21:39:56@Bay_yamashiro これが巨人...星野も西本も通った道... pic.twitter.com/BYMj2mfqtd
2016-01-11 21:40:31そんな中、平松投手を2位で指名したのは60年の日本一以来再び低迷していた大洋ホエールズでした。 ドラフト前からエース候補として平松投手を高く評価していたホエールズでしたが、ジャイアンツと意中にあると聞いていたため1位指名はせず。 しかし、この事態にすぐさま2位で指名を決定しました
2016-01-11 21:41:30