三国志の英雄・曹操の行軍歌「苦寒行」を愛し、私こそが日本の英雄曹操だと信じた天武天皇について―日本史の中の「曹操」―

こんなときだからこそ、三国志ファンの心をひとつにする曹操の故事を。「曹操と温泉」「曹操をメモした平安貴族」「悪役曹操=井伊大老?」
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

そういえば、日本の古代史が好きで『万葉集』を研究してる人で、かつ三国志が大好きって人には出会ったことが無いです。そういう日本史の人は、北魏や唐が大好きという気がする。

2015-09-01 22:57:41

内乱突入前、大海人皇子(天武天皇)は、私こそが日本の曹操にあたる英雄だと考えていた

巫俊(ふしゅん) @fushunia

そういえば、去年の私がこんなツイートをしてました。「読書中の万葉集の論文によると、天武天皇が吉野の雪が降る山中に入っていく(壬申の乱の始まり)とき、吉野で歌った歌は、曹操の漢詩「苦寒行」(高幹討伐中、山で道に迷う)の影響だとありました」 論文などは探すと出てくるんですよね

2015-09-01 23:00:54
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『万葉集』に出てくる 天武天皇が歌った「み吉野の耳我の山に…」の御製歌は、坂本信幸氏の1993年の論文「巻一・二五 番の天武天皇御製歌の成立過程について」によると、この歌の手本は、三国志の英雄曹操が歌った「苦寒行」という漢詩だと指摘されています。

2016-01-20 22:19:05
巫俊(ふしゅん) @fushunia

nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstre… 「苦寒行」に言及している、その論文です。クリックすると、PDFで読めます。

2016-01-21 01:16:34

天武天皇が、近江京を脱出して吉野に向かったときの歌

日本古代史上、最大の内乱「壬申の乱」(671年)挙兵のためです

巫俊(ふしゅん) @fushunia

(天武)天皇御製歌 或本歌(あるほんのうた) み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を 万葉集巻1 pic.twitter.com/Hj23JhRoy1

2016-01-20 22:32:51
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

神聖な吉野の 見かねるという耳我(みかね)の山に 時ではないのに (常に)雪は降るという 変わり目もなく (常に)雨は降るという その雪の 時ではないように その雨の 変わり目のないように 神々が隠れる隈(くま)をひとつも見落とさず (常に)そう思いながらやって来た あの山道を

2016-01-20 22:36:56
巫俊(ふしゅん) @fushunia

※壬申の乱の直前の671年10月30日の天武天皇(大海人皇子)吉野入りのときの歌

2016-01-20 22:38:35

中国史を研究したいけど、日本史(郷土史)に需要があるので、万葉集も調べていまして

巫俊(ふしゅん) @fushunia

「耳我」の読みは、諸説ありますが、「見かねる」から「耳我禰」(みかね)だろうと考えています。「禰」(ね)が脱落したようです。

2016-01-20 22:41:25
巫俊(ふしゅん) @fushunia

万葉集巻13に、「み吉野の 御金(みかね)の岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るという」という伝承歌(歌っている間に、違うフレーズになった歌)があり、「みかね」と見ることができます。この山だと解釈された山が、吉野山の観光名所・金峯山寺(きんぷせんじ)になりました。

2016-01-20 22:44:28

天武天皇の軍事的センスは、曹操を彷彿させるものがあります

吉野脱出後は、不破(関ヶ原)に陣取り、正面の近江京に主力を向かわせ、戦闘中の倭京(飛鳥)には、騎兵を先行させて伊賀路から援軍を送りました。

倭京では、大伴吹負(ふけい)が蜂起し、スピードを重視して大阪府と京都府の県境の要害に向かいますが、苦戦していました。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

曹操の歌の「苦寒行」は、袁紹の勢力圏だったヘイ州(現在の山西省)を攻めたときの苦しい行軍を歌ったものとされ、袁紹の死後、袁譚、袁尚と戦ったあとに、ヘイ州刺史の高幹を曹操が親征したときの歌だとか。

2016-01-20 22:48:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia

高幹攻めは記録が少なくて、貴重な史料になる歌だとか、聞いた記憶があります。袁尚領の冀州を制圧したのが先ですから、冀州からヘイ州へと、太行く山脈を越えて攻めていったのでしょうか。

2016-01-20 22:52:59
巫俊(ふしゅん) @fushunia

行軍中、山道に迷ってしまったことなど、苦しい様子が色々と出てくる歌だそうです。

2016-01-20 22:54:00
巫俊(ふしゅん) @fushunia

京を脱出して、山道を抜けて、天武天皇が到着した吉野は、袁家という「最大の敵」の勢力圏を絶つために、曹操が目指したヘイ州をイメージさせたのかもしれないですね。

2016-01-20 23:00:53

内乱に勝利した天武天皇だが、後継者問題では、曹操と同様、ひどく揉める

天武天皇の子どもの大津皇子は、英雄の相があるとされ、義母の皇后(持統天皇)にとっては脅威であった。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

実は大津皇子については、それほど感情移入したことが無かったのですが、『懐風藻』の漢詩・臨終一絶の解説を聞いて、考えが変わりました。

2016-01-20 22:17:45

謀反の罪を着せられ、処刑場へ送られる大津皇子の漢詩です。本人の作ではないが、皇子の従者が中国南朝の陳・後主の滅亡の歌をパクってきて、皇子自作の歌として発表しました。

万葉学者の上野誠先生(奈良大学教授)の講演会で、この歌のことをお聞きしました。私が属している地元の研究会が主宰の講演会です。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

天武天皇が三国魏の曹操のような英雄なら、大津皇子はさしずめ悲劇の皇子曹植(詩聖)と皇子曹彰(虎退治)の両方の能力を持つ人物というところでしょう。つまり、父親の天武によく似ていて匹敵しているということです。

2016-01-20 22:17:50

天武天皇の吉野の歌に、大津皇子を重ね合わせると

巫俊(ふしゅん) @fushunia

匹敵しているということは、671年の大海人皇子の吉野入りを暗示するこの歌からは、大津皇子の心情もイメージできるかもしれません。大津皇子は享年24歳で壬申の乱当時の大海人皇子よりずっと若く、同じとはいきませんが、父親と同じ道を歩もうとした気持ちが大津皇子の心の中にあったのでは?

2016-01-20 22:20:50

2度と内乱が起こらないように、天武天皇は伊勢国から伊賀国を分離させて国司を置くなどし、道路の警備を厳重にしていた。

大津皇子にはもう、父が内乱を起こしたときの抜け道は閉じて無かった

魏王曹操の都には、温泉が湧いていた?