第六天魔王信長と悲運の勝頼~ようするに信玄と謙信が悪い

「真田丸」時代考証の丸島和洋先生による、武田信玄・上杉謙信関係の解説です。
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丸島和洋 @kazumaru_cf

超高速!参勤交代ならぬ超高速!本能寺の変でございました。さて、信長といえば「第六天魔王」ですが、これは皆さんのイメージされる魔王ではありません。フロイスによると、信玄が信長に同盟を破棄した際、「天台座主沙門信玄」と署名してきたので、「第六天魔王信長」と返事した、とあります。

2016-02-03 01:22:19
丸島和洋 @kazumaru_cf

戦国時代の同盟破棄に際しては、「手切之一札」という同盟破棄通告書を相手および関係諸大名に送り、自分の正当化を主張しますので、フロイスの話には元ネタがあったと思われます。実際、元亀四年正月に、信玄と信長はそれぞれ足利義昭に自身の正当性を訴える上申書を出しています。

2016-02-03 01:23:56
丸島和洋 @kazumaru_cf

信長は信玄の徳川領侵攻に気がついておらず、かつ事実を知らされるとマジギレした書状を上杉謙信に送っています。信長から話を聞いた謙信は、「家康と戦うということは信長を敵に回したも同じ」と述べており、どうも信玄は家康と開戦はしたものの、信長を敵に回したつもりはなかったようです。

2016-02-03 01:25:55
丸島和洋 @kazumaru_cf

家康に対しては、かつて今川氏真を挟み撃ちにした際の国境線設定の約束を破ったという難癖をつけてきたと『三河物語』にありますから、信玄は家康には「手切之一札」を送ったのでしょう。その後、怒った信長が家康に援軍を送りますが、三方ヶ原の戦いで信玄が大勝利を収めます。

2016-02-03 01:27:39
丸島和洋 @kazumaru_cf

その三方ヶ原の戦いに際し、信長の援軍を確認したことで、信長とも正式に同盟破棄ということになります。この時の信玄、結構行き当たりばったりな気がしています。それで足利義昭に信長の非法を訴えるのですが、そのうちのひとつが比叡山焼き討ちへの非難でした。

2016-02-03 01:29:29
丸島和洋 @kazumaru_cf

フロイスも、信玄は比叡山復興を旗印に出陣してきたと述べています。信玄は元亀3年に天台宗から権僧正に任じられた上で出陣していますから、信長と戦うとなった際には、そういうアピールをして自己正当化を図ったのでしょう。

2016-02-03 01:31:41
丸島和洋 @kazumaru_cf

それで出てくるのが、「天台座主沙門信玄」と署判した「手切之一札」を送ってきたというフロイスの記述ですが、さすがにこのような署判は想定できません。天台座主ではないですし。「法性院信玄」であったろうと思います。ただ、信玄が比叡山復興を旗印に掲げたことが重要なのです。

2016-02-03 01:33:20
丸島和洋 @kazumaru_cf

信長が署判したとされる「第六天魔王」というのは、「第六他化自在天」のことを指し、「衆生が仏道にはいるのを妨げる者」を意味します。ようするに信玄が比叡山復興をスローガンにしたので、「俺はそれを妨げてやるよ」と皮肉交じりに返した、というのが実態だと思われます。

2016-02-03 01:35:24
丸島和洋 @kazumaru_cf

「手切之一札」はあちこちにばらまいて正当性を主張し、味方を増やすのが目的ですから、そのなかにウィットに富んだ文言を滑り込ませたということになります。ただ、「魔王」という言葉が何となく信長のイメージにあうので、独り歩きしてしまった、ということです。

2016-02-03 01:38:45
丸島和洋 @kazumaru_cf

なお、実際の信長麾下の国衆には、比叡山焼き討ちを知って「信長にはついていけない」と漏らしている者がいます。あまり知られてないですが。この国衆は、その後信玄に内通しています。しんげn

2016-02-03 01:42:42
丸島和洋 @kazumaru_cf

信玄の外交というのは意外と読みが甘く、今川を攻めたら北条に同盟を破棄されて駿河で孤立し、調子に乗って遠江に軍勢を派遣したら遠江は徳川領と決めたはずだと家康からぶち切れられ。何とか家康をなだめてほしいと信長に頼んだけれどこの時点ではただの同盟国なので上手くいかず。失敗のほうが多い。

2016-02-03 01:48:28
丸島和洋 @kazumaru_cf

それじゃあ徳川と織田は関係ないのね、と徳川領に攻め込んだら信長がぶち切れるという流れ。最終的に信長と戦うことは想定していたと思われますが、すぐ開戦とは予想していなかった気がしています。

2016-02-03 01:50:56
丸島和洋 @kazumaru_cf

勝頼の不運は、1)信長の怨みを買いまくった状態で家督を嗣いだこと、2)信玄が後継者という処遇をなかなか明確にせず、家臣に同輩意識が残ってしまったこと、3)信玄死去の混乱期に、近畿の同盟国が壊滅してしまったこと、(続)

2016-02-03 23:25:12
丸島和洋 @kazumaru_cf

@kazumaru_cf 4)天正4年に足利義昭の調停で上杉謙信との同盟を成立させ、さらに毛利とも同盟して新たな信長包囲網を構築したのに、その謙信もあっさり死んでしまったこと、5)謙信が後継者を景虎から景勝に急遽変更したため、没後御館の乱がおこり、巻き添えを食らったこと。

2016-02-03 23:27:00
丸島和洋 @kazumaru_cf

@kazumaru_cf で、この御館の乱が原因で北条との同盟が崩壊し、善後策として佐竹・上杉と結んで北条包囲網は作り上げるが、信長への和睦交渉は門前払いされたため、武田包囲網も作られてしまったこと。武田遺臣は上杉景勝との和睦→北条との同盟破棄を滅亡の原因と考えたっぽい。

2016-02-03 23:29:36
丸島和洋 @kazumaru_cf

ようするに、信玄と謙信が悪い。どっちも外交政策はもの凄いワガママなので、被害が甚大。何しろ謙信は家臣からも「御屋形様はせかされることがお嫌い」と言われたほどで・・・。

2016-02-03 23:31:27
丸島和洋 @kazumaru_cf

義信事件の余波は間違いなく大きいんですが、信玄が甲府に召還した後も、後継者指名はしたものの、有力一門扱いにとどめたっぽいのがでかい。何しろ年末に行われる宿老軍議にも参加させてもらってない。

2016-02-03 23:33:45
丸島和洋 @kazumaru_cf

上杉謙信の外交の特徴は「有言不実行」で、最大の被害者が北条氏政。越相同盟は氏康や氏照が進めたものだから、氏政は当初から不平たらたらで、氏康が死去したら速攻で同盟破棄に動いている。すると謙信が逆ギレして、北条父子の起請文を神前で燃やして呪詛。約束守らなかったのは謙信なんだけどね。

2016-02-03 23:37:12
丸島和洋 @kazumaru_cf

軍記類だと北条氏康の遺言で越相同盟破棄ということになっているけど、あれはどうみても主導権を回復した氏政の巻き返し。そもそも養子に行くのは氏政の子供と決まっていたのを、氏政がごねたのでしかたなく弟の景虎に代わったといういきさつがある。

2016-02-03 23:39:19
丸島和洋 @kazumaru_cf

だいたい越相同盟交渉開始後の永禄12年8月に、氏政は同盟交渉の取次役を務めている上野国衆由良成繁に書状を送り、「輝虎のわがままは増える一方だ」と愚痴って、「交渉が破綻したら上野一国を与える」と約束している。この後、氏康が氏政の外交姿勢について謙信に弁明することになる。

2016-02-03 23:46:59
丸島和洋 @kazumaru_cf

まあ越相同盟時の謙信は、アンチ北条の関東国衆を味方につなぎとめるために、同盟条件をどんどん上積みしていき、そのたびに「これを受け入れてくれたら武田領に攻め込む」と約束しては、反古にする、の繰り返しなので、氏政がぶち切れるのも無理はない。

2016-02-03 23:50:22
丸島和洋 @kazumaru_cf

謙信の「口約束」は今川氏真・徳川家康・織田信長に対しても同様だから、ある意味で首尾一貫しているといえる。

2016-02-03 23:50:57
丸島和洋 @kazumaru_cf

で、自分は約束を平気で破るんだけど、相手が敵対したら烈火の如く怒る、というのが謙信の特徴。ただ、「あいつらを馬鹿者と思ってあしらったのは失敗だった」と北条高広にこぼしているから、反省する気はあったらしい。ただ、次に活かそうというつもりはない。

2016-02-03 23:54:08
丸島和洋 @kazumaru_cf

謙信のタチの悪さは「武田を攻めるために上野に出陣した」と北条に連絡しておきながら、何故か下野に転進している、というあたりに良く現れている。

2016-02-03 23:57:34
丸島和洋 @kazumaru_cf

いっぽう、武田信玄は「上杉謙信とは和睦中なので、攻められる心配は無い。安心して駿河攻めを再開しよう」と家臣を鼓舞する一方で、「越後で内乱が勃発しますように」と祈願している。こちらもかなりタチが悪いが、ようは武田・上杉とももう直接対決はやりたくなくて、互いにわかってたのよね。

2016-02-03 23:59:48