#20160227ドストエフスキー読書会メモ

#20160227ドストエフスキー読書会 一参加者による個人的メモです。
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升目 @merongree

個人的まとめであって公式なものではないですが、個人の備忘録としてのメモをば、、、どなたでもご利用下さい。ただあとでトゥギャッターします。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:40:48
升目 @merongree

テーマ「白痴」。トピック ①ムイシュキンと周縁 ②眺める目(ロゴージンの彷徨う目)③ナスターシャフィリポブナと病 ④イノセンス #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:42:12
升目 @merongree

① ムイシュキンは公爵だったり男性だったり割と中央にいるところから、女性や病人や子供といった周縁の 人々に好かれて求められる。高いところからやってきてくれるが、神というほど完璧でもない。村医者程度の有難味のキリストではないか。#20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:46:53
升目 @merongree

①ムイシュキンの本来いる天国のようなところから現実に降りて来る、という意味で受肉するキリスト、という感じ。降りて来てくれる人。しかし公爵であったり性格良かったりする点が救われる側としては肝心。隣人でなく使者という属性が必要だった。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:48:42
升目 @merongree

①この降りて来てくれる場所のかなり深いとこにいるのが、ナスターシャフィリポブナ。彼女は女性であり、また現代人の知識から見ると何らかの病気ではないかと思われる言動あり。しかし当時の小説のヒロインの類型の影響もあり、一概には言えない。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:50:17
升目 @merongree

①ムイシュキンの意識はたえず自然から侵食されている。彼は半分はあの世の人。それゆえに理性が一貫せず、完璧なひととも言い切れないぶれがある。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:51:41
升目 @merongree

①「真に美しい人間を表現する」という当初の計画は遂行されていないとみていいたが、他方「神の愛は人間には実践できない」という物語として読むことは出来る。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:52:49
升目 @merongree

①ムイシュキンがスイスで風景をみて「この風景と自分は何ら無関係なんだ」と感じて涙を流すという場面がある。彼はつねに世界とのある断絶を感じていたのでは。この態度はスイスからペテルブルグにいっても変わらない。舞台が変わっても彼は変わらない?#20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:54:32
升目 @merongree

①ムイシュキンの周囲への態度を「微笑と無関心」と表現したものもある。それでいて深い洞察力もある。彼は見ることにのみ発達して、見返されて反応されることに不慣れな「一方的に発達した目」のようではないか。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:55:55
升目 @merongree

①スイスとペテルブルグと舞台が移るのを公爵の「貴種流離譚」として見ることは出来る。他方、「当時のヨーロッパにおけるスイス」と「ロシア大都会のペテルブルグ」はどっちが高いか低いかという気もする。#20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:58:14
みずほゾンビ @mizuhos60

残業と発熱で欠席してしまったけど、もし行けたらムイシュキンとカリグラフィについて聞きたかった。スイスは、スイス語ってないからドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語、ラテン語が公用語で。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 19:59:47
升目 @merongree

①ムイシュキンはナスターシャの美貌をみて「恐ろしかった」と初めから言っていた。これは彼女を取り巻くトラブルを予感していたか、あるいは恋を知らない子供が母親でも友達でもない綺麗なお姉さんをみて反応に戸惑っている様子か。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:00:39
みずほゾンビ @mizuhos60

ヘルベチカ(ラテン語でスイスの)というフォントが有名だし、国際タイポグラフィー様式は別名スイス様式。ムイシュキンがカリグラフィが得意というのは、一国で複数の言語を扱うスイス暮らしの影響では。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:02:20
升目 @merongree

①ムイシュキンの異常性をどこに見るか?そもそも初対面の人間に「死刑台に上る男の顔を書いてくれ」と言ってしまうあたり、また「大人といると辛い」 と言う様。子供と友達になれる大人というのは、ペドか、あるいは本当に自分が子供か。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:02:25
升目 @merongree

①ムイシュキンは「憐れみの愛で愛している」とかすぐに言うが、翻訳で「憐れみ」と入ると色がつく。「苦しんでいるひとと苦しみを分かち合いたいという愛」だったのではないか。上から目線な部分もあるが、そもそも神の愛は上から目線。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:03:33
升目 @merongree

①ラストシーンは、ナスターシャとロゴージンとムイシュキンで「三人で一人の人間」という感じもする。「三位一体」ともとれる。「嬲る」という字のごとしでもある。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:04:56
升目 @merongree

②ムイシュキンに対して、ロゴージンの執拗な目で追いかけて来る描写、あそこで彼は本当に実在していたのか?謎。もしかしたら全部ムイシュキンの妄想だったかもね。ナスターシャの過去も、本人の妄想という説がある。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:06:48
升目 @merongree

②「殺される者は殺す者の姿をその目に焼き付ける」というロシアのことわざがあり、ロシアの殺人鬼で被害者の目を抉ったというケースがあった。これはサスペンスなどでもしばしばある。ロゴージンは「加害者の目」という姿にさえなった。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:07:58
升目 @merongree

③ナスターシャ自身は自分を被害者だと規定していた。それゆえに誰にでも攻撃的になれる権利があると考えていたのでは。その被害者意識をムイシュキンが「あなたは汚れていません」と言いに来ることで引き剥がそうとしてきた悲劇。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:09:28
升目 @merongree

③ナスターシャは病人のようだし、また破滅的な性格ゆえの魅力があった。しかし本人も言うように天性の悪女ではなく、悪女のロールを演じることで生き抜いていた印象。ただしその生は、病の輪の外には出られない。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:10:54
升目 @merongree

③ナスターシャがその言動を病に揺さぶられたように、ムイシュキンも発作が起こったりして完璧な人ではないし、登場人物たちは、病の外には出られない。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:11:50
升目 @merongree

③だがムイシュキンが半分あの世のひとで、つねに自然からアクセスがあって理性が揺さぶられるというのはナスターシャもそうだったのでは? 「自然との敵対」というテーマがここでも表れているように思う。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:12:52
升目 @merongree

③ナスターシャは悪女のロールを演じ、傷ついた女性性のなかに逃げ込んでいた。ムイシュキンの愛がそこに追い込んだ部分はある。ロゴージンの追い払い方は分かっていても、ムイシュキンは武器としてきたトラウマさえ取り上げて来るから始末に負えない。 #20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:14:44
升目 @merongree

③ムイシュキンの憐れみを受けることを、ナスターシャはとても耐えられずに突っ撥ねた。他人から憐れみを受けることの出来る弱者というのは、不思議な存在感があり強い。彼女はそこまではいけなかった。#20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:16:02
升目 @merongree

③憐れみの愛を与えようとして相手に突っ撥ねられる、ムイシュキンがうまくやれなかったこの経験は、後にカラマーゾフでアリョーシャに引き継がれる。アリョーシャはイリューシャの父に金を与えて、突っ撥ねられて、なお与えようとした。#20160227ドストエフスキー読書会メモ

2016-02-28 20:17:09