ツバキにはどうして赤と白の花があるのか?

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コロサイ3章23節 @ckpr6nh

ツバキの花は赤だったり白だったりする。これは、次のように言い換えた方がすっきりする。ツバキには赤い色の花をつけるものや、白い色の花をつけるものもある。白と赤とが混じった(ピンクじゃなくて、一つの花に白い部分と赤い部分がある)ツバキもある。なんで?ってなる。すっきりが欲しい。

2016-02-29 22:02:13
コロサイ3章23節 @ckpr6nh

「多様である」ということはいかにして言えるのか。考え方によっちゃ経験はすべて個別のものだ。こないだ食べた香ばしいチョコレートと今飲んだ香ばしい紅茶、どうしてどちらも同じく「香ばしい」と言うのだろうか。それは同じ香ばしいであるはずがない。経験はすべて異なっているじゃないか。

2016-02-29 22:04:09
コロサイ3章23節 @ckpr6nh

同じ「香ばしい」として、私たちは「くくっている」のだと考えられるだろう。言葉によってくくっているのだろうか?たしかに、香ばしいという言葉がなければあれにもこれにも「香ばしい」と評価しなかっただろうし、思わなかっただろう。でもここは慎重になるべきだ。「によって」が怪しい。

2016-02-29 22:06:59
コロサイ3章23節 @ckpr6nh

「人間はタンパク質によって作られている」と言うとき、タンパク質は人間の構成要素であって、作り手ではない。一方、「そのシチューは彼女によって作られた」と言うとき、シチューは彼女が作ったと言うことであって、彼女の肉片がシチューに入っているわけではない。では、言葉は作り手か構成要素か。

2016-02-29 22:09:18
コロサイ3章23節 @ckpr6nh

この点は今は措こう。とにかく、私たちは言葉によって経験をまとめあげる。*ここでいう「経験」という語についても、その言い方が成り立つのは個別の経験(ヒューム的に言えば印象、ということだろうか)が「経験」という語によってくくられているからにほかならない。太陽はなぜ大きくて熱いのか。

2016-02-29 22:11:55
コロサイ3章23節 @ckpr6nh

いまやこの問いにも答えられよう。「大きい」という語でくくられたもの(そのものとは、「大きい」という語である)と、「熱い」という語でくくられたもの(それは「熱い」という語である)によって、たったひとつしかないはずの太陽について大きいだとか熱いだとか言うことができているのだ。

2016-02-29 22:14:07
コロサイ3章23節 @ckpr6nh

ツバキにはどうして色んな色があるのか?と疑問に思ったとき、それをツバキとしてくくっている前提に気づかなければならなかった。もはや花を見るという経験が個別的でしかないのに「なぜツバキは」と言うことが奇妙になる。赤い色の花をつけるものや、白い色の花をつけるそれをツバキと呼ぶのである。

2016-02-29 22:18:53