劉備と孫権の荊州貸与問題について

Jominianさんによる、ネットの中で、どちらに過失があるか長い論争の歴史のある三国志の劉備陣営と孫権陣営の間で交わされた荊州貸与の問題のツイートです。考察の深さに感銘を受けましたので、まとめました。
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Jominian @Jominian

黄蓋が武陵に入った時の記述は、金旋を破って入ったような内容ではない。既に手に入れた城に入ったことが窺える。また、劉備孫権連合が武陵を攻めた時の太守の名は劉備側の記述にしかない。武陵を含めた四郡を平定したのは劉備なのだろう。問題はどこで太守の任免権が孫権の側に移ったかということだ。

2016-02-28 18:50:25
Jominian @Jominian

諸葛亮は長沙、桂陽、零陵の三郡を治めたが、その治所は臨蒸に置かれた。河川の集まる場所なので物流をコントロールするのには十分だが、それならもっと北の長沙郡治でも良いはずである。漢昌郡の領域というのは、後の湘東郡境くらいまで南に広がっていたのではないか?

2016-02-28 19:11:31
Jominian @Jominian

武陵を劉備単独で陥落させたなら、その太守を孫権が任免するのは不自然に思えるかもしれないが、そうではない。劉備が孫権に拠った構図は、かつて劉備が劉表に拠った時と重なる。劉表も劉備に荊北を制させたが、それを劉備に明け渡すことはなかった。拠るべき所なきゆえの立場の弱さなのだ。

2016-02-29 00:30:43
Jominian @Jominian

劉備は荊南を制した後、孫権のいる京口へ向かった。魯粛伝では劉備は荊州を都督することを求めたとある。これは恐らく正しい。但し劉備と孫権、両者の認識は異なる。劉備は先んじて劉琦を荊州刺史としており、しかも劉備はそれを継いでいた。劉備は正当性と、自身が存在する利を以って荊州を得んとした

2016-02-29 00:43:06
ネットインコ @Golden_hamster

@Jominian 本当に赤壁での被害が大規模じゃなかったなら、曹操は両者の認識の違いを突いていかなきゃいけないとこよな

2016-02-29 00:46:15
Jominian @Jominian

@Golden_hamster 実際そうだったように、劉備は良いように使われる立場を脱しようとしていたし、孫権は劉備を使役しようとしていたので、再度南下することができれば、劉孫の関係を突いて荊州を混乱させることもできたはずだからな。そもそも、雲夢沢を通ってる時点で余裕がない感じが

2016-02-29 00:48:50
Jominian @Jominian

孫権は曹操を破ったので、そのまま勢いに乗って平定した荊州は、曹操から奪い取ったという認識だろう。劉備としては、そもそも荊州は劉表の治めていた場所であり、孫権はその遺児である劉琦を助けただけであるという考えになる。その違いを誤魔化したのが、貸与した体を取るという魯粛のペテンだろう

2016-02-29 00:59:38
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@Jominian 周瑜の死後、孫氏勢力の軍がいたはずの江陵が、いつの間にか、劉備の勢力圏になっている印象がありました。江陵を引き渡す場面とかありましたっけ?

2016-02-29 01:07:52
Jominian @Jominian

@fushunia 周瑜の死後に程普が南郡太守となっていたのを、孫権が荊州を劉備に与えたので、程普が江夏退いたという記述が程普伝にありますね。

2016-02-29 01:10:13
ネットインコ @Golden_hamster

@Jominian 劉備がいないと孫権の荊州進出は困難だったはずだからな。一部であれ平穏に統治するには劉備の協力が必要というのもあったのだろう。魯粛のような形で双方に希望を持たせるようにしておかないと孫権も損をする状況だったのだろうと思う。

2016-02-29 07:20:48
Jominian @Jominian

@Golden_hamster 荊州における劉備の人望の高さを考えると、荊州の人々からすると、劉備こそが劉表に代わる新たな主と思っている感じもあるしな。たちまち人が集まってきたし。無理に劉備を引き離せば、それこそ曹操の南下を呼ぶかもしれんしな

2016-02-29 07:27:54
Jominian @Jominian

曹操は劉表の死で労せず荊州を手に入れたが、劉備追撃を急いだため、降伏した荊州の差配をしたのは江陵に入ってからだった。その後まもなく赤壁の戦いが始まるので、劉備追撃で得た荊州の民をどうこうしている時間はなかったはず。また、曹仁を残した時点では荊南放棄を考えていなかっただろう。

2016-02-29 07:32:27
ネットインコ @Golden_hamster

@Jominian 荊州サイドの抵抗と曹操の再進攻を招いたと思う。 それを避けるにはああするしかなかったのだろう。 で、いずれ益州、三輔へ出ようとする劉備から何らかの形で荊州を回収する、と。

2016-02-29 07:32:38
Jominian @Jominian

曹操が荊南の放棄を考えたのが建安十四年になってからだとすれば、荊州の民を移そうとしたのも、その時期であろう。同じ頃、揚州でも民を移そうとして失敗している。荊州の民を豫州に移したのも、同時期であると考えた方が良い。つまり、建安十四年だ。鄧艾の年齢は、建安十四年に十二歳に満たない

2016-02-29 07:37:14
Jominian @Jominian

@Golden_hamster シナリオ通りだったな。それが破綻し、ついにしっかり領土を分割するということになったのが、益陽で対峙した時やな。

2016-02-29 07:39:13
Jominian @Jominian

鄧艾の生年は198年を遡ることはなく、荊南放棄の決定が建安十四年後半だったことを考えると、十二歳になったのは建安十五年以降だろう。199年か200年の生まれとするのが良さそうだ。姜維とほぼ変わらない

2016-02-29 07:41:59
Jominian @Jominian

「荊州は孫権が貸与したもの」という論理は、劉備孫権の間で荊州問題を玉虫色に決着したが為に生まれたものであるが、孫権側の論理としては一理ある。しかし、それを建安二十年以降も適用するのは無理がある。建安二十四年の侵攻は、領土の返還を求めたのではなく、純然たる侵略である。

2016-02-29 07:51:53
Jominian @Jominian

発生したタイミングの是非はともかく、建安二十年の劉備孫権の武力衝突は、劉備としても望んでいた展開だったかもしれない。とにかくも名目上は荊州を借りたことになっており、それをどうにかして解消するには、孫権に攻撃させて且つそれを跳ね返すのが手っ取り早い。だから劉備も挑発的な態度をとった

2016-02-29 07:58:03
Jominian @Jominian

黄蓋が武陵に入った時、郡兵もろくに置かれていなかった。平定後まもなくだったことが窺える。劉備が京口に赴いて直談判しようとしたのは、孫権が劉備を飛び越えて武陵太守を置いたことで、「また地歩を築くことができない」と危惧したからではないか。そうすると、黄蓋の武陵入りは建安十五年初頭

2016-02-29 09:02:04
Jominian @Jominian

劉備が荊州を借りているという体を続け、孫権の従属的同盟者に甘んじることを続けていれば、恐らく孫権との衝突は生じなかっただろう。しかしそれは、劉備を戴く人々の求める姿ではない。曹操の対たる劉備を求める人は、孫権を戴くことを望まないだろう。

2016-02-29 11:25:07
Jominian @Jominian

「荊州は当然孫権のもの。借りパクしようとした劉備が悪い」とか「荊州を治める正当性は劉備にあるし、荊南は劉備が平定した。」みたいな、荊州に関する極端な見方は、あまりよくなさそう。妥協の結果があのグチャグチャであって、このの局面ではどちらも納得した上でああなってたように思う

2016-03-01 00:03:52
Jominian @Jominian

劉備は劉表客将時代、曹操との矢面に立ち、且つ荊北から曹操の勢力を駆逐しつつあったが、劉表が劉備を危険視するや、あっさりと文聘に替えられ、劉備は何も得られなかった。赤壁後の劉備は、孫権との関係が、劉表の時と同じになるのを恐れた。そこで、徐州の時と同様の流れになるよう、色々進めたのだ

2016-03-01 07:40:25
Jominian @Jominian

劉備は赤壁後に劉琦を荊州刺史とし、曹操の脅威から劉表の遺児を助けたという体裁を整えた。そしてその死後、徐州の時同様、荊州の群臣に推される形で牧を引き継いだ。劉表モデルから陶謙モデルへの転換が行われた。しかしそれでは孫権が納得しないので、そこは直接交渉し、調整する必要があったのだ

2016-03-01 07:45:58
Jominian @Jominian

孫権が劉備に荊州の土地を与えたことを聞き、曹操が持っていた筆を落としたというのは、曹操が劉備をこそ恐れていたのがよく現れている。ただ劉備が立ちはだかるだけなら、自分が出て破れば足りるが、劉備が土地を得れば、徐州の時のように容易に引きはがせなくなることを分かっていたのだ。

2016-03-01 07:54:06