フリードマンの功罪

フリードマンが主導した新自由主義。市場原理に委ねれば社会は効率的になり、消費者は便益を受ける、と。 しかし副作用として、まるで古代ローマの拳闘場のように、実体経済の中で企業同士を殺し合わせ、疲弊させるという状況を生んだ。他方、仮想経済という観覧席に座る投資家・資本家は勝者に賭けた賭け金を稼ぐ、金融資本主義を生んだ。投資家が漁夫の利を得る経済となった。
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shinshinohara @ShinShinohara

一世を風靡したフリードマン。 フリードマンの功績は、途上国への技術流出かもしれない。徹底した市場原理、輸出入規制の緩和を進めれば「先進国の労働者より途上国の安い賃金で製品を作った方が競争力を保てる。」工業技術が先進国から流出、新興国の台頭のきっかけを作った。

2016-03-06 21:16:40
shinshinohara @ShinShinohara

他方、フリードマンの新自由主義は、リアルエコノミー(実体経済)を疲弊させるという副作用があった。 実体経済の中でモノやサービスを提供するAとBという企業を価格競争させ、安売りで勝利したものだけが生き残れば、消費者はより安くモノやサービスを入手でき、社会は効率的になる、と主張。

2016-03-06 21:17:53
shinshinohara @ShinShinohara

しかし消費者は労働者でもある。B社が潰れA社が生き残っても、それはB社の雇用が失われ、A社の社員も安売りの中で賃金を減らすという消耗戦を意味した。賃金が減れば、便益を受けるはずの消費者が購買力を失う。しかも途上国へ技術流出すれば、先進国の労働者は根本的に雇用を失う。

2016-03-06 21:20:04
shinshinohara @ShinShinohara

フリードマンによる新自由主義経済は、実体経済内で企業同士を戦わせ、疲弊させ、ひいては実体経済全体を消耗させることに繋がった。

2016-03-06 21:20:51
shinshinohara @ShinShinohara

ここに漁夫の利を得る人達が。金融資本家。A社B社が実体経済の中で潰し合いの消耗戦をする中、勝者から投資の見返りを得る投資家達。バーチャルエコノミー(仮想経済)の住人・投資家は、言わば拳闘場の中の殺し合いに興じながら賭け金をせしめるローマ市民のような立場に立っていた。

2016-03-06 21:24:13
shinshinohara @ShinShinohara

保育の問題を市場原理にさらそうという意見がある。だがそれは、まさに拳闘場の中に保育士を放り込むようなものだ。拳闘場ではどんな手を使おうと生き残った者が勝ち。そして勝者に賭けたローマ市民ならぬ投資家が賭け金を手に入れる。生き残った拳闘士(保育士)は、生き残っても傷ついて疲弊する。

2016-03-06 21:25:52
shinshinohara @ShinShinohara

私は自由が大切だと考えている。しかし自由を本当に楽しむなら「制限の中の自由」が一番楽しい。サッカーは「手を使わない」という制限をわざわざ受け入れて競技している。「そんな不自由イヤだ!」と思うなら、サッカー人口は絶滅するはずなのになぜか人気。 それは制限の中に無限の自由があるから。

2016-03-06 21:28:05
shinshinohara @ShinShinohara

手を使えないという制限は、不器用な足を使うしかない、その足を器用に操れなければならないという新たな挑戦課題を産み、冒険心をくすぐられる。そして不器用なはずの足を「自由」に操って、点をとる楽しみがある。制限の中に自由があるからこそ、挑戦的醍醐味が生まれる。

2016-03-06 21:28:58
shinshinohara @ShinShinohara

もしサッカーの規制緩和が進み、手を使ってよいとなったら?「フットボール」と同じ名で呼ばれるラグビーと差がなくなる。殴る蹴るも自由化すれば?プロレスと変わらなくなる。サッカーの醍醐味を失う。制限をなくすことは挑戦的課題を消失させ、「制限の中の自由」という楽しみを殺す。

2016-03-06 21:30:27
shinshinohara @ShinShinohara

ピアノは音階をドレミの7つに区切り、鍵盤の数しか音を出せない制限がある。しかしピアノは無限の音楽を奏でることができ、巧拙の差も生まれる。ドとレの間には無限の音の差異を出すことができるのに、せいぜい半音を用意するだけ。そうした制限の中で、無限の音楽を奏でる自由が成立している。

2016-03-06 21:31:26
shinshinohara @ShinShinohara

言語もそう。日本語は母音を5つしか持たない。しかしありとあらゆる事象を言語化することができる。もし「あ」と「え」の区別をなくす「規制撤廃」を認め、中間的な発音を無限に許したら、少なくとも標準語は崩壊し、共通して対話する手段を失ってしまう。

2016-03-06 21:33:51
shinshinohara @ShinShinohara

俳句も五七五の制限を受け入れるからこそ、うまく歌おうと腕がなる。 制限の中の自由って、ものすごく面白い。

2016-03-06 21:36:26
shinshinohara @ShinShinohara

制限をなくす自由というのは、かえって面白味を奪い、ルール無用、武器使用もなんでもありのデスマッチのように、殺伐としてかえって面白味を失い、平板になる。「制限の中の自由」は、制限がかかっているからこそ無限の自由が生まれる。その楽しみを再発見するのは、かなり面白いのではないだろうか。

2016-03-06 21:36:50