いわゆる「邪馬台国」について(その6)
【WEB最速】「「日本」昔ばなし異伝―現れた女王Ⅵ」自然先紀 yellow.ap.teacup.com/jinen/html/ide… いよいよ「邪馬台国問題」編の最終回(連載6話目)。 ――震えろ、世界。この問題は既に解決した。
2016-03-10 06:36:54列車中ミネルヴァ書房版『「邪馬台国」はなかった』拾い読みしているが、古田氏が決定的迷路へ踏み込んだのは総里程(万二千余里)と総日程(水行十日陸行一月)が併記されているという強力な結び付けが原因だったことが改めて分かる。(続
2016-03-12 10:08:44承)榎説による放射線読法が持つ構文的な確かさ、いわば国語力の裏付けを否定するプロセスが不十分だったのだ。「魏略」に総日程のはずの「水行十日陸行一月」はおろか「邪馬壹国」も「投馬国」(水行二十日)も出て来ないことは重視されても良かったのだが…。(続
2016-03-12 10:10:21承)情報のソースが別々で、構文的にも「水行十日陸行一月」は榎説の放射線読法パターンによる伊都国を基点とした東南(奴国)、東行(不弥国)、南(投馬国)、南(邪馬壹国)という文脈からも、伊都国から邪馬壹国への行程と読むのが自然だろう。そこだけ抽出するのは恣意的のそしりを免れまい。(続
2016-03-12 10:20:00承)類推するに「魏略」の情報に張政の報告を挿入したのが「魏志倭人伝」であろう。倭国(卑弥呼を共立する連合)を形成する三十国のうち大国である投馬国と邪馬壹国の情報が付け加えられたというのが自然な解釈だ。三十国には各々王が居て、官や副官(兄弟執政?)として機能しているのだろう。(続
2016-03-12 10:47:21承)倭国全体の王である卑弥呼も当然ながら、その三十国のうちの一国の王であり、その出身母国で都を置く国が邪馬壹国なのだとすれば、張政の報告書から追加情報として陳寿が抽出したことも合点が行く。魏も曹操の代では首都は許昌だが、後漢代なので本来は洛陽が首都なのと概念的には同じだ。(続
2016-03-12 11:01:44承)では「万二千余里」はどう考えるか。ここのプロセスは未だに自信がないことは正直に言っておこう。あくまで可能性だが「狗奴国」との折衝のためその境界にある奴国まで張政が赴いたと仮定すれば「魏略」は張政帰国以前にその折衝の経緯を報告した文書を元にしているのではないか?(続
2016-03-12 14:36:09承)奴国(二万の方)や不弥国には恐らく張政は所用のため日帰りで何度か訪れていたのだろう。しかし狗奴国との折衝は地理的に不案内であり、倭人の先導を必要としたことは想像に難くない。三十国が陸続と連なっているわけでもないことは投馬国や邪馬壹国の例で分かるので張政は基本野営であろう。(続
2016-03-12 14:44:02承)その際に野営地の付近に点在する三十国の連合に属する国々の名称をメモ書きしていたとすれば、里数表記も方位も曖昧なことの説明もつく。狗奴国との境界の国である奴国(南の方)までの行程は日数が分かっているからおよその里数の見当はつくはずだ。それが千五百「余」里なのだろう。(続
2016-03-12 14:53:40承)帯方郡治~狗邪韓国まで7000里、対海国、一大国、末盧国まで各々1000里ずつ、そこから「東南陸行」500里で伊都国、プラス南端の奴国までの1500「余」里で合計「万二千余里」となる。はなはだ怪しい計算なので異論は認める。帰りに九州東岸を「周旋」したのかも知れない。(続
2016-03-12 15:08:21承)九州東岸を経由した際、張政か部下が実際に踏査したのなら四国と思われる東への渡海千余里や四千余里の侏儒国の記載も理屈が通る。距離的にも矛盾は生じない。さすがに裸国・黒歯国までは踏査が及ばなかったので倭人か侏儒国人からの聞き書きで船行一年(恐らく半年)と記したのもリアルだ。(続
2016-03-12 15:27:06承)ついでに卑弥呼だが、「日巫女(ヒ-ミコ)」や「日甕(ヒ-ミカ)」は短絡し過ぎではないか? これも「魏略逸文」には登場しない張政からの報告書からの抽出にあたるが、注目すべきは狗奴国の国王・卑弥弓呼だ。彼の名も「魏略逸文」には出て来ない。この二名の名は照応している。(続
2016-03-12 15:36:53承)何度も繰り返すが国語力の問題だ。構文的に卑弥呼は「ヒ-」で区切るのではなく狗奴国王・卑弥弓呼との名の共有からして「ヒミ-」で区切られねばならないだろう。あるいはこの二人の王は血縁か地縁があるのかも知れない。「素不和」も全体の王に共立された卑弥呼への対抗心ならば腑に落ちるのだ。
2016-03-12 15:50:42総論的に検証し直しているが、古田説を論破する手順が(感情を逆撫でされたからであろうが)非論理的だったのはともかく、自説が正しいから古田説は間違いという筋道を出なかったことも有効打を放てなかった原因の一つだろう。実際には古田説のロジックには結構穴がある。そこを検証すべきだったろう。
2016-03-16 07:43:52「万二千余里」と「水行十日陸行一月」が別々の文章から切り取ったものであること、「水行十日陸行一月」が「水行二十日」行程の投馬国への記事と併記されていることだけでも、その切り取りが恣意的なことは示せたはずなのだ。
2016-03-16 07:51:51古田説のロジック的な穴については、やはり「島廻り半周読法」を崩さなければならない。行水か風呂か忘れたが「ユリイカ!」状態にトランスしてしまわれたために論理的におかしくなっている。「万二千余里=水行十日陸行一月」に数字合わせをしてしまっている。(続
2016-03-19 07:49:47承)帯方郡~伊都国が10500里なので、残り1500里。対海国半周400×2で800里に一大国半周300×2で600里、合計は1400里と100里不足している。そこに東行の不弥国への100里を足す根拠が実は薄い。「魏略逸文」は伊都国が女王に属している次が直ぐ狗奴国記事だ。(続
2016-03-19 07:57:44仮に島廻り半周読法がなされていたとするなら、「魏略逸文」に「万二千余里」はあるのに、対馬国の「方四百里」の記述が無いことの説明がつかないことになる。ここは省略されたのだと言うのも、東行100里不弥国と東南100里奴国のうち前者だけを行程に組み込むのも恣意的の謗りは免れない。(続
2016-03-19 12:31:17承)「水行十日陸行一月」の「陸行一月」を韓国内に求めるのもかなり無理がある。デモンストレーションを兼ねてという主張だが、太守・弓遵が戦闘で戦死しているくらい「難治」の地を毎回往還できたものだろうか? 一番太い行路を説明なしに表記するとなると海岸に循いて水行がしっくりくるのだが。
2016-03-19 12:44:04