- chelfitsch
- 8480
- 20
- 0
- 0
チェルフィッチュの「部屋に流れる時間の旅」。繊細に重ねられた音と光、繰り返されるセリフと身振り。空間の密度がどんどん増していき満たされる、なんとも言えない時間感覚を体験。 渋滞やら何やら全体的に夢っぽい一日でした。 pic.twitter.com/w0LaqVN7Wc
2016-03-21 14:26:49京都ロームシアターにてチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』観てきた。とりあえず、ものすごくよかった。
2016-03-21 14:26:49チェルフィッチュの「部屋に流れる時間の旅」を観ました。震災と希望。死者の声がリフレインし、心地よく胸に響きました。久門剛史さんの舞台美術も素晴らしかったです。 kyoto-ex.jp/2016/program/c…
2016-03-21 14:26:26さんざん話し尽くされたことだろうけど、圧縮されたり抽象化されたりした時間をあえて相対化させるみせるその先。『部屋に流れる時間の旅はそれがきちんと舞台としての面白さに落とし込まれてて、気持よかった。変な言い方だけど身の丈にあってるっていうか。 #チェルフィッチュ
2016-03-21 14:16:26それにしても、先日の一般批評学会で問題定義された「映画流れてる映画館のその外には実は超リュクスな時間流れてんじゃね?」問題もそうだけど、なんかそういうの流行ってんすか? わからなくはないけど、正直いまいちピンとこない。特に311とか持ちだされると…… #チェルフィッチュ
2016-03-21 14:23:12ピンと来ないというよりも、正直ちょっと「厚かましさ」を感じる。311前から窓の外ではずっと聞こえない音なってますから……。それが東京っていうまた別の問題を経由して作品化されると、なんかちょっと鼻につく部分がないわけでもない。 #チェルフィッチュ
2016-03-21 14:40:30KYOTO EXPERIMENTでチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』観た。今更ながら初チェルフィッチュ。カンパニーとしてのコンセプトや方法論は思ってた以上に思ってたとおり。でも舞台作品としては、普通によく作りこまれたエンタメ?で、そこは完全に想像外 #チェルフィッチュ
2016-03-21 14:07:46チェルフィッチュ新作、ぼくはベッキー問題に対する岡田利規からのレスポンスとして受け取った節があるため、ググると凄い真面目な感想がいっぱい出てきてびっくりである。震災の話でもあるのだけれど、恋愛の話でもある。震災と恋愛のどちらにガジェットとして考えるかで、解釈が全く変わってしまう。
2016-03-21 14:05:56チェルフィッチュ「部屋に流れる時間の旅」@京都会館北 。テキストは嫌いじゃないんだけど、ていうか多分すきなんだけど、目の前で流れた時間はいろいろ残念だったなあ。っていう作品だったらすごいんだけど。んー。
2016-03-21 14:00:20チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』。震災後の時間を生きる僕たちへの「嫌味」wの劇だった。穏当に言えば「告発劇」だが。僕だって「こんな筈じゃなかった」って思ってるよ!
2016-03-21 13:19:59チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』、 もちろんこれは小説ではなく演劇なのだが、この物語の「話者」は誰か?まず、死んだ妻のセリフはすべて夫にむけての語りかけである。夫は新しい彼女と会話しときどき妻の問いかけに答える。そして、新しい彼女だけが、観客に向かって語る地位にある(続く
2016-03-21 13:27:44新しい彼女は劇中人物として会話をすると同時に、この劇の話者なのだ、話法は一人称である、とひとまずは確定出来るだろう。(続く
2016-03-21 13:39:15しかし、いっぽうで、(話者=彼女の語る物語としての劇中において)死んだ妻と夫との「会話」部分は、時制は現在だけれど、会話の内容はすべて(劇中人物としての)新しい彼女には知りえない筈の、夫婦の過去と現在に関するものである。これは「話者」としてはいささか不合理であろう。(続く
2016-03-21 13:50:58次いで、「時制」の問題。話者は男の部屋への訪問、という自分に起こる出来事を、現在形(と未来形)で語る。あたかもこれから起こることとして語るというのは物語叙述の方法として過去を語る場合にも用いられる。もっとも時間を旅するというのだから往来自在ではある。(続く
2016-03-21 13:42:40で、思ったのは、形式上ではなく実際のナラティブは、同じ部屋にいながら異なる時空をパラレルに生きる3人の男女のそれぞれの「1人称」の併置・重ね、という理解はピッタリ来るのではないか、と。
2016-03-21 13:58:49(続き)別の言い方をすると、パラレルな3つのナラティブにおいて、他の人物は想起や想像上の人物、ということ。3人それぞれの「劇」において(死んだ妻はもちろんのこと)残りの2人は「幻想」「幻影」「幽霊」のような存在ということだ。(続く)
2016-03-21 14:04:31(続く)それでも、やはり、形式上の話者=唯一観客へ向かって語りかける人物が、なぜ「新しい彼女」なのか?という疑問が残る。わけだが、続きはまた後で。(続く)
2016-03-21 14:09:49チェルフィッチュ見れてしまった。らっきー⭐︎ おまけに最前列桟敷じゃなくて通路階段。らっきー⭐︎ 完売から20人は入れるということかしら。京都会館ノース、よいやん。延々と活用されますように(祈)
2016-03-21 13:43:58京都でチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』。面白かった。何度か書き直したけど、どうしてもネタバレが心配になっちゃうので、感想はひとこと。震災から5年経った今の私たちを描く。緻密で直球だがダサさ、間抜けさもふんだんで素敵。特に妻の衣装とメイクがツボ。ダンス作品としても楽しんだ。
2016-03-21 13:29:46昨日、京都ロームシアターにてチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』。『現在地』『地面と床』に続く「震災後の作品」であり、二作同様、極めて静かな演劇。特筆すべきことは、ほぼ一幕物であるということだろう。「ほぼ」という但書付きではあるが、実質的に短編、小品と呼んでいい作品だと思う。
2016-03-21 12:46:09実際、物語的な内容は一編の短編小説のようである。だが、とすればポイントは、にもかかわらず上演時間が90分近くあるということだろう。おそらくはこのことがまず、タイトルに入っている「時間」の一語の意味である。内容的には『地面と床』に、そして『別人』にも『ゾウガメ』にも似てる所がある。
2016-03-21 12:52:19おそらくは、語られることのそのシンプルさゆえに、物足りなさを覚える観客もいることだろう。あるいは或る種の観客にとっては、観念的だと退けられるかもしれない。そういう反応が出てくることは否定出来ない。そのように作られているのだからだ。
2016-03-21 12:55:50