《「日本を福島のレンズで切リ取る作家」である赤城さんのこと、他、原発事故発生後数カ月の思い出など》

自己ツイートをまとめました。
23
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

アーサー・ビナード#日本を福島のレンズで切り取る作家 - dailymotion.com/video/x3xqv05_… @Dailymotion_JPさんから

2016-03-19 18:11:37
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

@Dailymotion_JP 赤城さん。2011年3月16日。福島県福島市の、私やあなたが勤務している県立高校で、「屋外で、いつも通りに合格発表を実施する事」に、最も理路整然と、毅然として異議申し立てをしたのは、あなただった。4月に入学する生徒を担任するあなただった。

2016-03-19 18:22:26
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月16日。合格発表前の職員会議が始まるまでに、へなちょこな私の精神は、既に妥協を考えていた。福島県庁と県教育委員会が押し通し、日本政府が黙認し、日本国内の医師たちが公的に沈黙し、テレビも新聞も「メルトダウン」という語を自粛する中、「私が何か言っても無力」と諦めていた。

2016-03-19 18:27:02
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

だけど、あの職員会議で、合格発表を受ける生徒たちを4月から担任する予定になっていた赤城さんは、あっさり妥協することはなかった。心から祝福して、新入生を迎えたかったのだ。「おめでとう」をウソにしたくなかったのだ。新入生の入学を心から祝うという教員として当然の気持になれない状況。

2016-03-19 18:37:20
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月16日。県立高校合格者と保護者、それを歓迎する部活動勧誘の先輩たち。彼らの健康と安全を、福島県幹部と、県官僚上層部は、中通りの放射性物質汚染を承知の上で脅かした。地元のテレビも新聞も、合格発表をほぼ例年通りに報道した。それを、日本国中の企業メディアも黙認した。

2016-03-19 18:43:22
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月16日。福島県の県立高校、中通りと会津地方の、屋外での合格発表。 311以後のあわただしさを割り引いても、福島県内教員組合は、異議申し立てをしなかったことは、記憶にとどめるべきだろう。原発問題に真剣に取り組む組合員の殆どは浜通りからの避難行動中で、意見表明不能だった

2016-03-19 18:49:54
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

その中で、屋外の県立高校合格発表に異を唱えたり慎重論を唱えたりした人は、私が知る限り、社会科、国語科、そして芸術科の教員だった。もちろん、それは個人によって様々で、上記の教科でも、合格発表に積極的に賛成した教員もいた。いや、むしろ、慎重論や異を唱える教員の方が圧倒的少数だった。

2016-03-19 18:54:09
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

同じ職場で、圧倒的少数側に立った赤城さんと私は、311前よりもずっと多くを話すようになった。 「対米英開戦の詔勅」で回天した芸術家や文学者が、雪崩を打って「報国」に向いたように、周りが「絆」を連呼する状況の中で。 赤城さんは、苦しみながら、家族を、生徒たちを、守ろうと努力した。

2016-03-19 18:59:53
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

誤解の無いように明記するが、私や赤城さんの当時の上司は、他の県立高校の管理職と比べると、誠実に事態に向き合おうとしていたし、県が許す範囲内ではあるけれど、良心的であろうとしてくれた。 他の同僚の多くも、他校の教員と比べてもマシな人が多かったのだろうと、今は思う。

2016-03-19 19:04:13
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

ただ、私たちの勤務先の上司も同僚も、職場が原発から60キロしか離れていないのにもかかわらず、原発が事故を起こしたら何に気を付け、どう行動しなければならないのかを、知る必要があるとは思っていなかっただけだ。TMI原発事故や、チェルノブイリ原発事故の事を知ろうとしなかっただけだ。

2016-03-19 19:07:48
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

ちょっと横道にそれるが、私が警告したいのは、以下の事だ。 原発から200㎞以内で住んだり働いたりしている人は、原発事故への対応に関する知識を自己責任で知っておかないといけないのが、現在の日本だ。 すると、その例外に住んでいる人は、北海道の道東の住民程度になるのだが。

2016-03-19 19:11:33
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

話を戻す。 赤城さんは、決して自慢しようとしないだろうし、満足もしていないだろうけれど。 生徒たちの健康と安全を守ろうとして、担任教師として可能な事をできるだけたくさん実施しようとしていた。 福島県庁がまともな対応をしないことに、私がしびれを切らして投げ出し、逃げ出した後も。

2016-03-19 19:16:27
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年4月以後、福島県の学校では、担任も教頭も校長も、福島県庁と県教育委員会が次々に押し付けてくる無理難題に対応せざるを得ない中だった。転入・転出を通常の規則を「柔軟化」させて許容し、学校によっては40人を超える生徒をクラスに置くことも「当然」になった。

2016-03-19 19:22:48
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

原発事故で、学校再開前に自主避難した児童生徒に対して、 「いつから登校する?」と電話で督促するのは、担任の仕事にされた。 学校のグラウンドの空間線量を、小黒板や白板に毎日書き込むことも、教職員の仕事になった。ただし、その空間線量を学校や教職員が独自に公表することは禁止された。

2016-03-19 19:28:08
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年4月以後、保護者が持参した線量計で放射線量を計測するのは。禁止された。自主計測を希望する保護者を制止するのは、学校の管理職の仕事になった。マスコミを含む学校外の人間に対して、線量計測を禁ずるのも管理職の仕事になった。福島県の学校は保護者が事実を確認できない場所になった。

2016-03-19 19:33:00
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

赤城さんが語るように、2011年4月12日には、私たちが勤務する県立高校では入学式が行われることになった。この時期よりも前に会津地方や福島県外に避難していた生徒に対しては、「いつから登校しますか?」と保護者に電話で督促するように、担任は県教委から管理職経由で命令されていた。

2016-03-19 20:42:52
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

中通りの学校で、2011(平成23)年度の授業が再開された理由は、「東電福島第一原発の事故が、深刻化することはないから」だった。しかし、再開計画が発表された時点では、原発からは、漏れ出た場所が分からない高濃度汚染水が太平洋に流れていて、入浴剤で水流を確認しているような状況だった。

2016-03-19 20:46:56
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

勿論、日本国外では「東電福島第一原発事故が深刻化しない」などという根拠がないウソは通用していなかったはずだが、日本国内では2011年4月は、「炉心溶融」とか「メルトダウン」とかツイッターに書き込む程度で、国立大学理系教員から「デマ拡散者」扱いされる状態だった。

2016-03-19 20:52:25
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

また、2011年4月の福島県内の状況を思いだすと、バラバラな「福島」が私の記憶から蘇ってくる。浜通りのいわき市や南相馬市では、政府の避難指示がなくとも遠距離に避難するのは珍しくなかった。中通りの福島市や郡山市では小中学校の登下校はマスク着用、保護者の自家用車送り迎えも多かった。

2016-03-19 20:55:55
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年4月、同じ中通りでも、男子中学生や男女高校生がマスク着用で過ごしていると白い目で見られたりイジメに遭ったりすることも珍しくなかった。また、高校の屋外運動部の大半は通常通りに除染前のグラウンドで練習や試合を行っていたし、中学校も、小学生のスポーツ少年団もそれに倣っていった

2016-03-19 20:59:58
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

同じ2011年4月、会津地方では基本的に原発事故で屋外滑動を制限されたという話は、私はほとんど耳にしなかった。ただし、会津地方の中心地、会津若松市では通常の5倍程度の0.2μSv/h程度の空間線量があり、私はその年の5月上旬に会津若松市に行って、線量の上昇を体感している。

2016-03-19 21:21:37
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

また、同じく2011年4月には、福島県知事(当時)佐藤雄平が先頭に立ち、福島県ゆかりの有名人たちを起用して、福島県の産物(農作物、農作物の加工食品、工業製品)などの安全安心・販売促進キャンペーンを本格化させている。国外からは「福島県内産品」全てに放射能検査を要求されていた。

2016-03-19 21:26:27
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

その、2011年4月。例年ならば、学校間の転入学は4月末で一区切りとなり、それ以後の転入学は、学期内には難しくあるのだが、浜通りからの避難関係の転出入学は弾力的に運用することになった。また、浜通りの高校のサテライト校舎なるものが中通りやいわき市などにできることになった。

2016-03-19 21:30:54
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

浜通りのある高校のサテライト校舎は、100㎞以上離れた場所に分かれて設置された。学級担任だけでなく、教科担任も朝はサテライトA校舎で授業し、100km以上移動して午後はサテライト校舎Bで授業する、などという事も珍しくなくなった。過労のための交通事故や交通違反に遭う教員も出た。

2016-03-19 21:34:40
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

そして、2011年4月下旬に「計画的避難区域」が設定され、住民でさえ許可なしには立ち入れない「警戒区域」が4月22日に設定されると、避難が数日や数カ月では終わらないと気づいた住民たちの動きが変わった。「3年から5年で元通りの生活にしよう」という、根拠がない希望が語られ始めた。

2016-03-19 21:46:42
残りを読む(10)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?