編集部イチオシ

九州の「大宰府」(だざいふ)は、何故「大宰相」的なネーミングなのか?軍閥化しそうな勢力に「太宰府」の開府を認めた中国の南北朝時代の官職と関係する!?

中国中世の南北朝時代の史書によれば、「太宰」とは、軍閥化する可能性を秘めた人物に中央政府が与えた名誉職的な称号で(将軍位などとセットで任命)あり、そこには「太宰府」があり、太宰長史や太宰参軍、太宰従事中郎といった直属の官僚を有していたようです。
50
巫俊(ふしゅん) @fushunia

九州の大宰府(だざいふ)ですが、重要な地域に置かれた「地方行政機関」と説明されているようです。何で「大宰相」的なネーミングなんでしょうね?

2016-03-28 00:30:37
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ちなみに「大宰」という言葉の意味ですが、 宰とは家宰という意味で、家宰とは、日本における執権や執事、管領にあたります。

2016-03-28 00:31:07
巫俊(ふしゅん) @fushunia

鎌倉北条氏を仮に一国の君主に例えれば、北条氏に仕える内管領が「家宰」にあたるかもしれません。 というのも「宰」と言う言葉は、元は君主に仕える事務官という意味でして、複数が任命されていることもあり、さいしょから「宰相」という意味では無ければ、宰相と言う言葉も存在しませんでした。

2016-03-28 00:31:26
巫俊(ふしゅん) @fushunia

この辺は、北条氏がいつの間にか事実上の幕府の権力者になっていたり、日本史の教科書では鎌倉時代の後半から内管領と言う言葉がでてきて、いつの間にか内管領が鎌倉幕府の事務を掌握していたのに、良く似ています。

2016-03-28 00:31:40
巫俊(ふしゅん) @fushunia

今、話しておりますのは、だいたい2800年前、中国の西周時代です。西周時代は周王と諸侯が「御恩と奉公」の関係を結んだ「封建」の時代なので、よく鎌倉時代と比較されます。

2016-03-28 00:32:02
巫俊(ふしゅん) @fushunia

事務官に過ぎなかった宰が、しだいに成長していきまして、西周時代の次の春秋時代になってはじめて登場するのが「大宰」です。

2016-03-28 00:32:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「大宰」は私たちがイメージする宰相に近い官職ですが、宰(事務担当官)たちの中の大きな宰であり、大宰が独占的な権力を持つようになるのは、春秋時代の終わりの頃だとされます。呉王夫差が「鎌倉の評定衆」的な人たちを排除したことで、王に直属する大宰の「ヒ」という人物に権力が集中したそうです

2016-03-28 00:32:38
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「宰相」という言葉が初めて出てくるのは、簡単に調べた限りでは、秦の始皇帝が即位する直前の時期に書かれた『韓非子』という書物です。

2016-03-28 00:33:05
巫俊(ふしゅん) @fushunia

古代の漢語としての「だざいふ」を見ていくと、「日本の一地方の名前」という印象よりも強い響きがあると言いますか、日本の中央政府から権限をそれなりに委任されている半自立的な組織という印象を受けますね。

2016-03-28 00:34:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia

というのは、中国の南北朝時代の「大宰」にそういう事例があるようです。

2016-03-28 00:35:02
巫俊(ふしゅん) @fushunia

中国中世の南北朝時代の史書によれば、「太宰」とは、軍閥化する可能性を秘めた人物に中央政府が与えた名誉職的な称号で(将軍位などとセットで任命)あり、そこには「太宰府」があり、太宰長史や太宰参軍、太宰従事中郎といった直属の官僚を有していたようです。

2016-03-28 00:36:07
巫俊(ふしゅん) @fushunia

日本の古代における筑紫大宰、大宰府はこれを典拠にしているようでした。

2016-03-28 00:36:35
巫俊(ふしゅん) @fushunia

日本の九州の大宰府が、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれたことの意味が、何となく分かった気がします。ちなみに、大宰府と書いて「おほみこともちのつかさ」と読むそうなので、ミコト(命、大王の言葉)持ち、つまり「私の言葉は大王の言葉である」と命令する大王の代理人(つかさ)でしょうか

2016-03-28 00:41:48

【2016年3月29日 大幅にツイートを追記】

Archer @Archer12521163

松井先生の「宰の研究」は論集(amazon.co.jp/%E5%91%A8%E4%B…)に入っているものの、なぜか後半部分は載録されていない。CiNiiにアップされているPDFが完全版なので、注意が必要である

2016-03-28 17:14:29
巫俊(ふしゅん) @fushunia

岩波文庫の『日本書紀』(五)を読んでいます。壬申の乱のとき、大友皇子の援軍要請を拒絶した「筑紫大宰」(つくしのおほみこともち)が、のちの大宝律令で大宰府の「大宰帥(そち)」と呼ばれる役職に当たります。

2016-03-28 23:34:14
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@rurururororo 筑紫大宰の栗隈王(くるくまのおほきみ、皇族)は「筑紫国は、辺賊の難をまもるための国で、(壬申の乱に)出兵したら筑紫国が空になってしまい、その隙に「にわかなる事」(外国からの侵攻)があれば、(日本の)国家が滅びてしまう」と言って、拒絶したそうです。

2016-03-28 23:47:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia

瀬戸内海に面する山陽地方にも、この地方の軍政を預かる「吉備大宰」(吉備総領とも)がありました。『日本書紀』の壬申の乱の記述の部分では、何故か「吉備国守」とあるのですが、内乱に勝利した天武天皇が任命した吉備大宰は、播磨国(兵庫県)も管轄していたことが『播磨国風土記』から分かります。

2016-03-28 23:57:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ちなみに、「吉備国守」は、大友皇子の援軍要請の使者と会見したところで、その使者に刀で殺害されてしまいました。「国守」も、本来は「みこともち」と読んでいた言葉で、臨時の監督官という意味です。

2016-03-29 00:00:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

この「吉備国守」は、筑紫大宰と連名で記されているので、「国守」といっても大宰クラスの実権があったようですね。両国は大国で、筑紫の国は、分割されて筑前、筑後の国になり、吉備の国も三分割されて備前、備中、備後(更に、美作国が分離)になっていくようです。

2016-03-29 00:04:36
巫俊(ふしゅん) @fushunia

北朝の「北魏」の官職の「太宰」を調べています。

2016-03-29 11:02:22
巫俊(ふしゅん) @fushunia

征東大将軍が必ず辺境の任地にいるとは限りませんが、鮮卑族が建国した北魏の歴史書の『魏書』には、北魏の第4代皇帝文成帝の外戚についての記述があり、外戚の常英という人物が、「侍中、征東大将軍、太宰、遼西王」になっています。

2016-03-29 11:05:58
巫俊(ふしゅん) @fushunia

唐代に書かれた制度史の『通典』(つてん)を見たところ、「至末年,太宰、三師、大司馬、大将軍、三公等官,並増員而授,或両或三,不可称数.」とありました。

2016-03-29 11:13:31
巫俊(ふしゅん) @fushunia

その意味は「北斉の末年、太宰と三師と大司馬と大將軍と三公などの官は、ならびに増員して、臣下に授けられた。ある官職は2人に、ある官職は3人に、数をかぞえることができないくらいだ」です。北斉は、北魏の臣下の高氏が建国した中原東部の王朝です。北周に滅ぼされ、その北周も隋に政権交代します

2016-03-29 11:20:24
巫俊(ふしゅん) @fushunia

日本の九州の「大宰」については、「おほみこともち」という意味があるので、中国の南北朝の「太宰」をそのまま移植したという訳では無いでしょうが、

2016-03-29 11:25:49