褒めるとか叱るとか。

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わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

「褒めてもいけない、叱ってもいけない」のは、それがアサーティブじゃないから。誰だろうと自分で自分の行動を決めていい。対等の立場でその自由を尊重するという姿勢。#幸せになる勇気

2016-03-29 18:31:27
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

良し悪しを「私」が決めて、「あなた」を評価する。それは良し。それはダメ。上の立場から相手の生き方を操作する。褒めるも叱るも目的は同じで、相手の生き方を自分の思うように操作すること。対等とはいえない。#幸せになる勇気

2016-03-29 18:34:18
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

人間は体に備わった感覚器を使って世界を知覚する。感覚器は限られた情報しか知覚できない。見えない、聞こえない、触れない、温度も圧力もわからないものは知覚できない。それは感覚的には存在しない。

2016-03-31 23:18:43
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

「見えない(知覚できない)けれど存在するもの」を信じるには、「みんなが言ってるし、存在するんだろうな」という憶測を根拠にするしかない。

2016-03-31 23:19:48
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

見えない何かの測定器も同じだ。測定器が反応するから「存在する」と思えても、「他の原因によるものだ」という反論が見つけられないから信憑が生まれているだけだ。極論すれば、どうやらそれっぽいとしか言えない。

2016-03-31 23:20:02
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

信頼性を否定できるうちは信憑がなく、どれだけ真実っぽくても「どうやらそれっぽい」以上のことは言えない。たとえば、見える聞こえる触れるものは、それが幻覚であってもリアリティを感じてしまう。

2016-03-31 23:20:32
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

バーチャル・リアリティなどは明らかに嘘だとわかっていても体が反応してしまう。体が反応するのが根拠になるなら、バーチャル・リアリティは真実ということになってしまう。

2016-03-31 23:20:40
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

「私に見えるものが真実」だとすれば、色盲の人にとっての世界は色の無い世界であり、それが真実ということになってしまう。だが実際に色盲でない人にとっては色を識別することは可能だ。だからやっぱり「見えるものが真実」にはならない。

2016-03-31 23:20:50
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

自分にとっての真実、自分にとっての世界がどれだけ疑いにくくても、それだけで真実だとは言えない。他の誰かと同じものを見ているとも言えない。自分が知覚できないことはわからないし、知覚できることも事実かどうか断定できない。この前提に立つと、他人のことなんかわかるわけがない。

2016-03-31 23:21:16
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

自分は絶対に正しいと確信して他人を叱り、いうことを聞かせようとする。「怒っているのではない、こいつのためだ」という。これは愛だと。だがそれは絶対の真理ではなく、単に「私がそう信じている」というだけだ。そんな個人的な信条をもって、他者の自由を束縛することのどこが愛か。

2016-03-31 23:21:36
わんこ先生@する哲学 @hokeypokey2012

「正しいかも知れないし、正しくないかも知れない。だけど私はこう思う。あなたはどう思う?」 叱ることは、この問いかけ以上の効果を出せるのか。「叱る」のは自己欺瞞だ。

2016-03-31 23:24:28