シンガポールと「大東亜戦争」と「昭南島」について 《山崎雅弘》
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前に紹介した井上和彦氏の「シンガポール戦跡紀行」の原稿が、より拡大した形で、産経の『正論』2015年4月号と5月号にも掲載されていた。内容は『歴史街道』掲載の記事とほぼ同様だが、こちらでは「日本統治時代の犠牲者の碑」にも触れている。 pic.twitter.com/eJ4pslQ2Y7
2016-03-04 13:44:46触れていると言っても当時の日本軍の行いを反省する言葉は一切なく、逆に「抗日華僑処刑の実体はよくわかっていない」と話をはぐらかした上、大東亜戦争肯定論を唱える別の著者の本を引用して「純然たる軍事作戦」であったかのように印象づけている。 pic.twitter.com/C8WM4i1c10
2016-03-04 13:47:41前にも紹介したように、シンガポール市内に立つ「日本統治時代の犠牲者の碑」は、日本統治下で犠牲となった中国人、マレー人、インド人、欧州人の「市民」を慰霊するもので、「抗日華僑の慰霊碑」ではない。井上和彦氏は巧みに事実をすり替えている。 pic.twitter.com/qcdBPwwwCH
2016-03-04 13:53:50井上和彦氏は、シンガポール戦跡巡りの中で「インド国民軍(INA)」に大きな紙幅を割いている。インド国民軍は、日本政府の支援下でインド人捕虜などで編成された、インド独立を支援する軍事組織で、戦後のインド独立にも一定の影響を及ぼした。 pic.twitter.com/z5DWbIsh5q
2016-03-04 14:01:54その辺りの話は拙著『世界は「太平洋戦争」とどう向き合ったか』(学研)の序章でも触れている。先の戦争中における日本政府の政策が、植民地の独立に寄与した一例だが、日本軍のシンガポール侵攻とインド独立運動は直接関係ない。インド独立を支援する目的でシンガポールを占領統治したわけではない。
2016-03-04 14:05:30シンガポールにはインド系住民も多く住んでいることもあり、シンガポール国立博物館や旧フォード工場博物館にはインド国民軍に関する展示も存在する。しかし井上和彦氏は、それと並んで展示されている日本軍の虐殺などの説明を徹底的に無視している。 pic.twitter.com/x9V6eVOYDP
2016-03-04 14:08:05太平洋戦争当時、英植民地のインド国内で活動していたガンジーらの独立運動指導者は、日本軍のアジア侵攻に不信感を抱いていた。例えばガンジーは、日本軍のビルマ占領から一か月後の1942年7月17日、「全ての日本人に」と題した、次のような公開意見書をインドの新聞『ハリジャン』に寄稿した。
2016-03-04 14:09:23(続き)「私はあなた方(日本人)に対して、全く悪意は抱いていません。けれども、あなた方が中国に対して行った攻撃を嫌悪しています。あなた方は、崇高な場所から、帝国主義的な野心の場所まで降りてしまいました」「もしあなた方が、インドの独立を望んでいるなら、イギリスがインドの独立を承認し
2016-03-04 14:10:32(続き)た時点で、皆さんがインドを攻撃する口実は無くなります。一方、もしあなた方が、イギリスが撤退した後のインドに入ろうと考え、それを実行するならば、わが国は全力であなた方に対して抵抗するでしょう」インド独立運動で中心的役割を果たしたガンジーは、日本の助けなど期待していなかった。
2016-03-04 14:12:08日本会議や産経新聞の出版物だけ見ていると、インド独立はあたかも「日本が支援したインド国民軍によって成し遂げられた快挙」のように見えるが、実際には言うまでもなく、インド独立を実現した最大の功労者は、ガンジーやネルー、ジンナーらを指導者とするインド国内の独立運動に参加した人々だった。
2016-03-04 14:13:35そもそも日本政府がインド独立を支援したのは、それが結果としてイギリスの国力に大きな打撃を与えるからであり、博愛主義的な「植民地解放」の理念があったからではない。もし後者があったなら朝鮮人の民族自決権をまず認めていただろう。フランスのベトナム植民地支配も黙認し、逆に圧政に加担した。
2016-03-04 14:14:47井上和彦氏は、「武士道」という言葉を多用して、シンガポール占領は「武士道精神」に基づいて行われ、シンガポールは「昭南島」となった、と書いているが、客観的に見れば、軍事力で占領して住民を虐殺し、島の名前を勝手に変え、敗戦まで自国領として扱う行為は「武士道」でなく「侵略」と評される。
2016-03-04 14:16:10日本会議の主要論客である渡部昇一氏は、『日本の息吹』2012年9月号に掲載された鼎談で、自身の歴史認識と、シンガポールの人々を見下す「偽らざる本音」を赤裸々に語っている。「いまシンガポールの華僑商人たちが威張っていても、戦前は、白人のイギリス人の召使だったじゃないか、ということを
2016-03-04 14:17:33(続き)知っているわけです。ですから、彼らが『日本が侵略した』などと言い立てるのを聞くと、口には出さないけれども『一体誰のおかげで、白人と対等な口を利けるようになったんだ』と言いたくもなります」日本が攻め込んでやったからお前らは独立できたのだ、という傲慢な思考が言葉に表れている。
2016-03-04 14:18:55『歴史群像』2016年4月号が到着。私の担当記事は、モノクロ12頁「シンガポールの第二次大戦」とカラー2頁「シンガポール戦跡紀行」。シンガポールの戦略的重要性と日本軍の侵攻・占領、そして日本統治下の実情を事実に基づき解説しています。 pic.twitter.com/IVjf4wnYOM
2016-03-05 13:45:15『歴史群像』カラー頁でスペースの制約上載せられなかった写真をいくつか。これは連合軍側の戦没軍人を埋葬した「クランジ英連邦軍軍人墓地」。島の北部にあり、慰霊の石碑には英語、中国語、マレー語、ヒンディー語、アラビア語などが刻まれている。 pic.twitter.com/6gdPytYz6y
2016-03-05 13:54:37ジョホール堤橋を、シンガポール側から見る(一枚目)。ジョホール水道、マレーシア側の王宮正面付近から西を望む(二枚目)。ブキテマ高地のジャングルは、沖縄の摩文仁の丘に似た地形(三枚目)。フォート・カニング貯水池の警備は厳重(四枚目)。 pic.twitter.com/zk5GGnxfd9
2016-03-05 14:10:08以下は、補足的な参考情報です。
「日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。
同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と自分たちは違うと考えていたのである。」
『リー・クアンユー回顧録』日本経済新聞社、上巻p.35
リー・クアンユー(1923-2015)は「シンガポール建国の父」と称される、初代シンガポール首相。青年時代、一市民として日本の占領統治下のシンガポールで過ごし、戦争中の日本人が現地でどう振る舞ったのかを当事者として目撃した。