大学院を出て就職先も未だ決まってなかった頃の話in1992

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堀井義博 @yoshihirohorii

大学院を出た時点で、就職先が白紙だった当時のことを、突然思い出した。 たしか、学校を離れる前に、どうしてもガッチリしたサヴォア邸の模型を大学への置き土産にしたくて、古山先生に製作費用をポケットマネーから出してもらい、当時学部の3年生だった棚瀬くんと一緒に作ったんだった。

2016-04-05 20:56:04
堀井義博 @yoshihirohorii

ところが、院の卒業式までに模型の竣工が間に合わず、学校から籍がなくなった後も、しばらく学校に通って作業を続けたのだけど、考えてみたら、ものすごく図々しかったと思う。 というのも、既に院生じゃなくなっていたのに、当然のように場所を占拠し続けていたような気がするから(汗)。

2016-04-05 20:59:34
堀井義博 @yoshihirohorii

…と、可能な限り自分に厳しく、自分の過去の所業を思い出してみたのだが、これでもまだ十分に自分に都合よく記憶を改竄しているのだろう。 事実なんか全く知りたくないなぁ(汗)。

2016-04-05 21:01:26
堀井義博 @yoshihirohorii

ちなみに、なんで俺がサヴォア邸の模型を大学への置き土産にしようと思ったのかと言うと、 まず第一には、 1992年当時、世間からはほぼ完全に無視されていたル・コルビュジエが、コールハースを経由した俺の中で大ブームだったから(笑)、 というのがある。

2016-04-05 22:28:33
堀井義博 @yoshihirohorii

二つ目の理由が俺としてはより重要で、磯崎さんとの対談集で、コールハースが「MOMAに収蔵されてるレオニドフの重工業省の模型は俺が作った!」と自慢してたから(笑)。

2016-04-05 22:35:39
堀井義博 @yoshihirohorii

コールハースが俺の中で特別な建築家なのは間違いないんだけど、秀逸なクリティークではあっても、決して優秀な造形作家というワケじゃないと理解してたので、その彼が美術館収蔵レベルの模型を作れるんなら、そんなのは俺でもできらぁ!と思い、そんならいっちょやってみようと思ったのだった(笑)。

2016-04-05 22:39:36
堀井義博 @yoshihirohorii

んで、ヨーロッパで見た美術館収蔵品レベルの模型は、どれも石膏や木工などで作られたガッシリ重みのあるもので、自分らが慣れ親しんでいたようなスチレンボードのヘナヘナなヤツとは違ったので、当然のごとく、最初から木材でガッチリ作る事を目指したのだった。

2016-04-05 22:44:00
堀井義博 @yoshihirohorii

今ではあいにく絶版になってしまっていると思うが、大学の図書館にあった GA Detail のサヴォア邸の号を参考資料として使わせてもらった。たしかリチャード・マイヤー(もしくは彼の事務所の所員)が起こした図面だったと思う。俺が人生の中でマイヤーに感謝した唯一の機会だった。

2016-04-05 22:49:24
堀井義博 @yoshihirohorii

で、使用木材の検討と、それに基づく模型用の図面作成から入った。当時はまだギリギリ手描きの時代だったので、模型用図面も手描きで起こした。マイヤーの図面がなかったらかなり難航しただろう。というのも、全集の図面は、いろんな意味で「使えない」からだ。

2016-04-05 22:55:25
堀井義博 @yoshihirohorii

床スラブや屋根スラブ、それに模型の土台などにする分厚い木材パーツについては、大学の木工室でマシンを使わせてもらった。それから、柱を立てる箇所の穴も、もちろん木工室のドリルを用いた。工繊大生で良かったと思った瞬間だった(笑)。

2016-04-05 22:57:55
堀井義博 @yoshihirohorii

それから、屋上庭園の自由曲線で作られた壁は、たしか手で曲げた真鍮板かパンチングメタルかのどちらかを芯材にして型を作り、票面を突き板で仕上げたと思う。でないと、全体に木調の模型がそこだけ別素材だと、おかしくなると思ったからだ。スロープの手すりなどは真鍮棒を溶接して作った。

2016-04-05 23:08:54
堀井義博 @yoshihirohorii

訂正 正 : 表面 誤 : 票面 票面ってなんだよ(笑)。

2016-04-05 23:36:05
堀井義博 @yoshihirohorii

一旦完成したつもりになって、俺が東京に引っ越した後、棚瀬くんが旅行でパリへ行った際に実物のサヴォア邸を「初めて」目にし、そこで自分が作った模型との違いを認識して帰国し、それを少し手直ししてくれた。確かそんな事があったはず。要するに、マイヤーの図面は少し違っていた。

2016-04-05 23:15:42
堀井義博 @yoshihirohorii

ちなみに、この模型の「竣工写真」は、当時まだ大学院生だった市川靖史くんに撮影してもらった。しかも、たしか彼が自分で手焼きにしてくれたと思う。在学中、彼には散々世話になった。今はすっかり偉くなられたのだろう。全然会ってないけど。

2016-04-05 23:18:01
堀井義博 @yoshihirohorii

…というワケで、大学院生時代の最後の瞬間から就職先も決まってなくてプラプラしていた時のことを、何故か不意に思い出して書き連ねてしまった。あの頃の方々は、俺とは違って皆さんが皆さんとも立派になられた。

2016-04-05 23:21:19
堀井義博 @yoshihirohorii

ま、過去の記憶の中に生き続けるのは死んでいるのと同じだと思うので、できればとっとともう忘れた方がいいと思う。今後、ツイッターのサーバか生きている限りは、俺の脳の代わりにこのメモが覚えといてくれるはずだ。

2016-04-05 23:23:54
堀井義博 @yoshihirohorii

ま、そんなこんなで、当時俺が棚瀬くんと作ったサヴォア邸の1/50の木製模型は、工繊大の美術工芸資料館?に今も収蔵されてると笠原くんから聞いたことがあるんだが、せっかくそんなものがあっても、今の学生は結局見ないのかもなー、と思ったりもした(笑)。

2016-04-05 23:27:42
堀井義博 @yoshihirohorii

以上だ。 あ、そう言えば、実を言うと、本当はラトゥーレットの修道院の模型を1/50で作りたかったんだった(笑)。ただ資料の入手が困難すぎたのと、図面の作成も困難を極めるのが必至だったこと、などなどから、まずは「手始めに」サヴォア邸にしよう、となったのだった(笑)。

2016-04-05 23:30:25
堀井義博 @yoshihirohorii

それにしても、1992年の当時は、ル・コルビュジエは、本当にほとんど無視されていたんだが、その数年後に大ブームがやってきて、まぁその当時の俺は「お前らは遅いんだよ」って思ったね(笑)。別に俺が作ったわけじゃないのにな!!

2016-04-06 00:01:01
Taku Yoshikawa @liquidskydive

@yoshihirohorii それ、よく覚えてるw 建築学科のある大学の資料館にはちゃんとした建築模型がないとダメなのだ、って四六時中言ってましたよw

2016-04-05 23:00:33
堀井義博 @yoshihirohorii

@liquidskydive 四六時中言ってましたか(笑)。若いのに、案外偉いね! っていうか、あの頃の俺らの大学には、なんでそんなものの一つすら無かったのかね!そっちの方がはるかに問題だよな!

2016-04-05 23:11:10
Taku Yoshikawa @liquidskydive

@yoshihirohorii たとえマスターピースであっても取り立てて所縁のない模型を作る(そして収蔵する)って発想がなかったかも。村野藤吾の原図が来た頃から流れが変わったのかな…と思ったり。

2016-04-05 23:39:22
堀井義博 @yoshihirohorii

実を言うと、あの模型は、かなり細かいところまで作り込んであって、2階(主階)の有名な風呂場とか、中庭テラスに面した北側居間の超長いぶち抜き吊り照明器具とか暖炉とかも作り込んである。エントランス右脇の階段も確か段数を合わせて作った。Rのガラス面のスチール縦桟の本数も合わせてある。

2016-04-07 08:06:07
堀井義博 @yoshihirohorii

実は模型の土台の決め方のせいで、地下のボイラー室だったかな?を作れなかったのが、俺としては心残りになってる。サヴォア邸で地下?しかもボイラー室?って思う人もいるかも知れんが、初期のスケッチを見れば解るとおり、地下空間はコンセプトの重要な一部を成してたから。

2016-04-07 08:08:40
堀井義博 @yoshihirohorii

そういう理解が背景にあって初めて、OMAのボルドーの住宅はキョーレツにシビれる作品となる。というのもル・コルビュジエが成し得なかった地下/地上(主階)/屋上の三対を実現し得たから。最下界のキッチュな洞窟状の空間は、ありゃ完全にル・コルビュジエへのオマージュだと俺には思える。

2016-04-07 08:13:53