【言葉の踏絵と条理の世界②】踏絵と焚香/「踏絵の日本」と「焚香のアメリカ」/”無意識の前提(日本教)”を意識しないが故に「言葉の踏絵」の世界から抜け出せない日本人

イザヤ・ベンダサン『日本教について~あるユダヤ人への手紙~』/言葉の踏絵と条理の世界/踏絵と焚香/17頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【踏絵と焚香】「踏絵」というものを御存知ですか。 これは三百年ほど前、時の政府がキリスト教を禁止した時、ある者が、キリスト教徒であるか否かを弁別する為に用いた方法です。 すなわち聖母子像…を土の上に置き、容疑者に踏ませるのです。<『日本教について/イザヤ・ベンダサン』

2016-04-16 12:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

③容貌からいっても、服装からいっても、言葉・態度・物腰からいっても、私達は当然、容疑者です。 勿論私達は懸命にキリスト教徒でない事を証言するでしょうが、恐らく誰もそれを信用してはくれず、踏絵を踏めと命じられるでしょう。 どうします? 言うまでもありません。我々は踏みます。

2016-04-16 13:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

④我々ユダヤ教徒が、偶像礼拝を拒否して殺されるならともかく、偶像を土足にかけることを拒否して殺されたなら、世にこれほど無意味なことはありますまい。 これは我々にとって、議論の余地のないことです。 だが次の瞬間、一体、どういうことが起るか、おわかりですか?

2016-04-16 13:38:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤日本人はこういう場合、一方的に我々を日本教徒の中に組み入れてしまうのです…奉行からは…金一封と賞状が下されるかもしれません。 同時に、もしそこに踏絵を踏む事を拒否して処刑を待っている日本人キリスト教徒がいたら、その人々は私達を裏切者か背教者を見るような蔑みの目で眺めるでしょう。

2016-04-16 14:09:08
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥その際、私たちが踏絵を踏んだのは、日本人が踏絵を踏んだのとは全くちがうことなのだ、といくら抗弁しても、だれも耳を傾けてくれないでしょう。 『日本人とユダヤ人』を出版した後、私は、踏絵を踏んで御奉行にほめられたような、妙な気を再三味わいました。

2016-04-16 14:38:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦「踏絵」と口をきく事はできません。 踏絵を差し出すという行為には言葉が入る余地がありません。 理由は一切問われませんし、釈明は全く許されません。

2016-04-16 15:09:02
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧踏んだか、踏まなかったか、だけです。 そしてそれが時には褒賞となり、時には処罰となります。 そして理由は一切問われませんし、釈明は全く許されません。

2016-04-16 15:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨以上のように申しますと、 日本人も質問するではないか、釈明もするではないか、 と反論されるかも知れませんが、日本人の質問とは、自分にわからないことを、相手にきいているのではないのです。 「言葉の踏絵」を差し出しているのです。

2016-04-16 16:09:10
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩これは国会の討論であれ、新聞記者のインタビューであれ同じであって、質問者は、さまざまの「言葉の踏絵」を次から次へと差し出して、相手が踏むか踏まないかをテストしているのです。 そして踏めば、なぜ踏んだかを問うことなく、相手を規定してしまいます。

2016-04-16 16:38:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪従って日本人と会見するときは、はっきりこのことを覚悟しなければいけません。 ではここで、日本人がなぜそうなるかを検討してみたいと思います。 ローマ政府がキリスト教徒迫害のとき用いた方法は焚香(ふんこう)でした。 これは、踏絵とは正反対の発想です。

2016-04-16 17:09:06
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫即ちその人がどんな宗教を信じているかは問わない、ただ皇帝の像の前で香を焚けば良いわけです。 …ローマは「所かわれば品かわる」を「所かわれば宗教かわる」と言った国です。 でまた、それを当然としていましたから踏絵は不可能です。 これは、ある点では現在のアメリカに似ております。

2016-04-16 17:38:50
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬すなわち、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、仏教徒であれ、星条旗への忠誠を宣誓すればよいのであって、それをすれば、その人が何教徒であろうと問いません。 これは一種の「言葉の焚香(ふんこう)」と解することができます。

2016-04-16 18:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭こうみて来ますと、「言葉の踏絵」が「言葉の焚香」とどのように違うかが、もう、おわかりかと思います。 この踏絵という方式は、一宗教団体が異端者を排除するために用いる方法であって、そこには、正統と異端しかいないということが前提です。

2016-04-16 18:38:53
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮従ってこの前提にあてはまらないものが現われた場合(前記のようにユダヤ教徒に踏絵を差し出した場合)、 日本人は、前提にあてはまらぬ者が現われたとは考えないで、その者を、どちらかに類別せざるをえなくなってしまうのです。

2016-04-16 19:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯日本人は日本教徒ですから、日本教徒としての前提でことを判断するわけですが、日本人は、この前提を意識しておりません。 「無前提の前提」とか「あらゆる前提を排して虚心対象に向う」とか言うことを、日本人はよく口にします。 …一応これを「無意識の前提」としておきます。

2016-04-16 19:38:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰笠信太郎という人が日本人を「やってしまってから考える」民族だと規定しております。 彼も典型的な日本人ですから、なぜそうなるかを考えずに、おそらく「書いてしまってから考えた」のだと思いますが、私はこれを、前提を意識しないからだと考えています。

2016-04-16 20:09:08
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱従って、やってしまって、その結果を見てはじめて、自分の前提の当否が検討できるわけです。 そこで、この踏絵という問題がさらに複雑になります。 すなわち何を前提として踏絵を差し出しているのか、三百年前の日本人も、現代の日本人も、全く意識していないのです。

2016-04-16 20:38:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑲しかし日本人が意識しようとしまいと、踏絵を差し出すからには、差し出す基礎となる教義があるはずです。 私が日本教と呼ぶのは、この教義を支えている宗教です。

2016-04-16 21:09:07