認識論?関係の連ツイ

唯物論者とキリスト教徒の戦いに触発されて、最近もやっと勉強してることをもやっと吐き出してみました。多分色々間違ってますがあんまり気にしてません。
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dif_engine @dif_engine

唯物論を取ろうがなんだろうが、まず我々は、自分の認識を言語を通して公的な形式で表現できると信じている。その上で、表明された信念が論理学的に整合しているならば、それは究極の真理を、何らかの形で反映していると信じる。←こういう話の随所にツッコミどころがある訳です。

2016-04-24 18:49:45
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 何かを正確に言葉で表すことの難しさは、昔から知られてはいた。しかし、ロックやホッブスは、「んなもんしっかりと書けばしっかり伝わるよw」みたいな事を書き残してる。若干アイロニカルな調子だったりするのですが。

2016-04-24 19:00:29
dif_engine @dif_engine

@dif_engine そのころまでは、思考と観念と言語は、それぞれ別個のものでありながら渾然一体なものであると認識されていた、とまで言うと言い過ぎですかね。

2016-04-24 19:03:40
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 観念という言葉も厄介で、プラトンのイデアとデカルトの観念とカントの観念は全て同じものか?とか言うと哲学やってる人からマサカリ投げられる。

2016-04-24 19:07:20
dif_engine @dif_engine

@dif_engine まあ投げられるかどうかは知りませんが、要するに議論を招く話題なわけです。

2016-04-24 19:08:39
dif_engine @dif_engine

@dif_engine イデアをそのまま英語に移すとアイデアなんですが、アイデアだと思ってプラトンの国家の岩波の下巻あたりの議論を読むと、プラトンは「アイデア」を言葉を通じてやり取り可能だと思ってた、そのように読める。

2016-04-24 19:10:53
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 数学の証明、といった、明確な定義と論理法則の有限回の積み重ねで表現される「アイデア」ですら、個人的には他人に伝えたり、他人の書いたものから理解することに困難を感じるので、ここでプラトンが言ってることは本当かなあ、とかアイデアとは何ぞ?となるわけです。

2016-04-24 19:14:09
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 「私の赤とあなたの赤は同じか?」という質問は有名ですが、感覚器官に遺伝や欠損による個人差があることから、感覚器官と近い「アイデア」は他人と共有できるという意味の普遍性はないとわかります。

2016-04-24 19:17:25
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 感覚器官と近い認識が他人と共有できない為に普遍性を持たないとしたら、他の「考え、イデア」はどうでしょうか。全ての感覚を遮断された状態で生まれ、生育した「水槽の中の脳」ならば、普遍性をもつ「考え」を獲得できるのでしょうか?

2016-04-24 19:21:34
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 水槽のなかで生まれた時から飼育された脳と、一体どうやって対話できるでしょうか? あるいは、水槽のなかで脳が飼育できる程の科学水準があれば、その脳の各領野と水槽の外の人間の脳の各領野を電気生理学的な方法で結合できるのかも知れませんが。

2016-04-24 19:56:25
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 仮定に仮定を重ねる不健全な議論ですが、あと少しだけ。そうやって水槽の中の脳と外の人間の脳を結合すれば、水槽の脳が持つ「考え」が取り出せるというのは事実でしょうか?結合される人間の言語や属する文化の影響は皆無でしょうか?

2016-04-24 19:58:57
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 「考え」というものが、感覚器官や言語や文化を超えた普遍性を、完全に持っているという見解は筋が悪そうです。そして、普遍性を持つ「アイデア」の範囲というものに明確な境界を与える事も難しいです。

2016-04-24 20:05:34
dif_engine @dif_engine

@dif_engine アイデアの共有、という事で過去からの有力な援軍はしばしば数学からやって来ました。数個の公理と、論理の運用規則を有限回組み合わせることで得られるアイデアは、普遍性を持つと信じられてきました。

2016-04-24 20:10:34
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 数学、特にギリシャ幾何学は、人間が感覚器官に惑わされずに数や空間の「本質」を直接知覚できる事の有力な証拠だと考えられてきました。

2016-04-24 20:13:04
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 点とは位置だけあって大きさがない、といった定式化を「理想化」と言いますが、このidealizationという言葉は、我々の感覚器官が得る粗雑で歪んでるかもしれない情報から、イデアの世界へと写像する精神作用に対して名付けたものであって、(続く)

2016-04-24 20:16:55
dif_engine @dif_engine

@dif_engine このような言葉つかいから、思考(アイデア、イデア)が直接的な知覚の対象であるというプラトン的世界観が汲み取れます。

2016-04-24 20:20:39
dif_engine @dif_engine

@dif_engine すると、では我々が数学に対して特別な哲学上の地位を与えるとき、それに伴って必然的に「思考が直接知覚の対象である事を信じる」ことまで呑まなければならないのでしょうか?

2016-04-24 20:22:47
dif_engine @dif_engine

@dif_engine ヒルベルト、ブルバキの影響を受けた世代は、数学を、例えば一階の述語論理と、推論規則や推論規則図式、そして有限個の閉論理式、と言った形で定義して、あとは形式的なゲームと捉えたい向きもあると思います。(このような考えは応用上の利点も持ちます)

2016-04-24 20:35:38
dif_engine @dif_engine

@dif_engine 真実の直接知覚という考えについて、もう少し書きたかったのです。歴史的順序にあまりこだわらなければカントぐらいまではすぐ辿り着けると思ってましたが、そうでもなかった。

2016-04-24 20:44:33
dif_engine @dif_engine

※精神に異常をきたして連ツイしたわけではない

2016-04-24 20:55:46