- miyabi_neko
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@1059kanri なるほど。奉行衆が自分たちを大老と称していたのは初めて知りました。ありがとうございます。
2016-04-29 21:35:59秀吉の家康に対する信頼については、秀吉存命中から(在京中の)家康の周囲にいる人達が秀吉の御伽衆とかぶっている点や、秀吉死後に家康に近づいたとされる面々が既に秀吉存命中から家康と接触していることからも推測できると思うのだが。
2016-04-29 21:39:33秀吉が家康に関八州与えたのも、元々統治してた北条も関東ほぼ全部分捕ってから日が浅くて国衆粛清が全然出来てなかった上に古河公方とか旧八屋形みたいな担ぎ出せる権威も地味に生き残っててそんなの下手に分割したらどこで火噴くか分からないから家康に一括して投げた、って解釈の方が自然な気はする
2016-04-29 21:40:28@1059kanri なんと!奉行衆の頭の中の権力構造が表れたような表現。秀吉死去~関ヶ原までの政争は、その認識の違いに起因するところもあったのでしょうね。
2016-04-29 21:50:22@Ertai_twit それは大きいでしょうね。奉行たち以外は、奉行衆を「奉行」と呼び、家康たちを「大老」と呼んでいるので、世間一般の認識からも乖離しちゃっています。
2016-04-29 21:52:35婚姻のあれも、家康がその権利まで秀吉から移譲されてたとか、秀吉死んだから空文化、とかそういう解釈があって、それに奉行衆が異議を唱えた、とか、そういう可能性はないのかなぁ。
2016-04-29 21:55:13秀吉死後の徳川家康と前田利家の対立が、家康による「秀頼が成人するまで大名間の婚姻禁止」という秀吉の遺命違反が原因とすれば、最終的に利家は家康に完全に屈服したことになります。何故なら家康と利家の和解の結果、家康と諸大名との婚姻で停止したものは一つもないからです。
2016-04-29 22:02:03北条は潰すことになったとはいえじゃあ反北条連合の諸公は無条件で信頼できるのかってのは別問題だからなぁ。里見とか佐竹とか早速勝手に動いてたし
2016-04-29 22:02:37@1059kanri 実際家康への利家の謝罪と言うことがされましたし、完全屈服な気が・・・。後の前田家の動きからも家康への敵対意思は感じられませんし
2016-04-29 22:05:32佐竹は関ヶ原後秋田に移封言い渡された時、家中は大反発したけど「ここで幕府に反発したら幕府の討伐より前に謀殺した南方三十三館の残党が蜂起して潰される」と、移封命令に従ったわけですが、移封の時でそうなら関ヶ原の時はもっと、これのため動くに動けなかったことでしょう
2016-04-29 22:08:13ちょっとだけ違って、三成たちの自称は「年寄」です。「大老」という言葉は、江戸幕府の役職名を遡って適用したもので、豊臣期にはありません。信長のもとでの村井貞勝を京都所司代と呼ぶのも同様。 twitter.com/1059kanri/stat…
2016-04-30 13:32:05三成たち奉行衆が自分たちを「大老」と自称し、家康たちいわゆる五大老を「奉行」と呼んでいたのは、実はかなり本気の認識で、彼らは家康たちを豊臣家の使用人にすぎないと、本当に考えていたのかもしれません。であれば「家康の専横」は、豊臣家以前に自分たちに対しての「下克上」であったわけで。
2016-04-29 19:17:20