2016年5月5日

吉永和加『〈他者〉の逆説』読書メモ集

吉永和加『〈他者〉の逆説――レヴィナスとデリダの狭き道』(ナカニシヤ出版、2016)の読書メモをまとめました。
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荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

新宿紀伊國屋にて、ついに念願の吉永和加『〈他者〉の逆説』(ナカニシヤ出版)を買った…ッ! な、ながかった…ガシガシ読むぞォー!! pic.twitter.com/ny4F4AFOEG

2016-04-27 18:17:46
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荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「レヴィナスの著作群は他者論とみなされている。しかし、それらを実際に紐解いてみると、他者がいかなるものかよりも、むしろ自己とはいかなるものかに議論が費やされているのがわかる」(吉永和加『〈他者〉の逆説』50p)。まあ、理路整然と他者語れちゃ、それって他者じゃないからな。

2016-04-29 14:31:12
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

自我中心性を脱却する決定的な契機が他者にあるとしても、それが結局自我のあり方にのみ跳ね返り、その倫理を私一人が背負って立つ、というのであれば、それは結果的には、ほかでもない、新たな仕方でのエゴイズムを導出するのではないだろうか。by吉永和加『〈他者〉の逆説』69p

2016-04-29 14:56:49
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「レヴィナスが、〈無限者〉を否定神学の神ではないとする最大の理由は、責任が否定的なものではなく、肯定的なものだからである」(吉永和加『〈他者〉の逆説』87p)。うーん、無限者はそうでなくても他者は否定的神学的だと思うけどな。

2016-04-29 16:24:52
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

ルソーが最終的に至った、他者との関係の放擲と孤独は、レヴィナスの倫理学の結論を暗示する。レヴィナスの非対称の倫理が、多大な借財としての責任を負わせる一方で、その実、無責任の避難所あるいはアリバイとなってしまうのではないかという疑いである。by吉永和加『〈他者〉の逆説』98p

2016-04-29 16:51:02
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

デリダの責任の無限性が、いかなる地点にも着地することを拒み、したがって罪悪感の告白すら忌避することは、レヴィナスが或る種、ヒロイックな主観性へと帰着したことへのアンチテーゼとなりうると考えられるのである。by吉永和加『〈他者〉の逆説』117p

2016-04-30 17:55:15
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

他者は、有限性と死すべき定めの内でしか、無限的な他者として存在しえない。byデリダ「暴力と形而上学」

2016-04-30 19:36:32
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「神学の用語で語りながら、神学のドグマは否定する、これがデリダの神学に抗して踏み留まる地点なのである」(吉永和加『〈他者〉の逆説』183p)。うーむ、レヴィナスに比べてデリダになると、途端に難しくなってくるな…いや、この本はそれでも簡潔たらんとしているが。

2016-05-02 13:07:50
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「否定神学という一つの言語活動の場を特定することはできない。とはいえ重要なことは、否定神学と呼ばれるものの核心で、ギリシア由来の哲学や存在-神学と、新約聖書の神学という二つの伝統の軌道が交差することである」(吉永和加『〈他者〉の逆説』)。うーむ…。

2016-05-04 17:23:46
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

吉永和加のいう「他者論の形而上学化」とは、「他者性を強調するとその他者はほとんど神に近似のものとなってしまう」逆説のこと(194p)。これが逆説なのは、レヴィナスにしろデリダにしろ、形而上学批判の道具立てとして他者を要求したから。形而上学批判が形而上学に回帰する。メモ。

2016-05-04 17:46:33
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

レヴィナスはDe Dieu qui vient a lideeの184頁で差延(differance)の語を使用しているらしい。メモ。

2016-05-04 17:54:28
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

デリダとレヴィナスって、要するに、差延と前言撤回ってどこが同じでどこが違うの?って話に落ち着く気がする(完全なる直感だが)。

2016-05-04 18:07:46
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

レヴィナスによれば、無限(Infini)のinは、「非」(non)であると同時に「中」(dans)を表しているそうだ。へぇー。

2016-05-04 18:12:36
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「レヴィナスは、自らが表明するほど、デリダと離れた地歩にあるのだろうか」(吉永和加『〈他者〉の逆説』210p)。吉永さんって、「地歩」って言葉好きだよな、もう10回くらい読んでる気がする。

2016-05-04 19:47:40
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

レヴィナスにとって否定性は単なる肯定性よりも強力な肯定性を備えている。存在を拒否する存在は、存在よりも盤石な地盤をもつ。否定神学をレヴィナスが拒否するのは、否定存在論として存在論に回帰してしまうから。『他者の逆説』218p。

2016-05-04 20:12:56
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「片やレヴィナスは否定神学を命題と取り、片やデリダはそれを運動だと捉えた」(吉永和加『〈他者〉の逆説』221p)。お、これは重要な指摘な気がする。

2016-05-04 20:22:20
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

パスカルの道徳に関する思索には、驚くほど「他者への道徳」が欠如している。だが、護教論という形で、彼の道徳、すなわち現世の仮構を生き抜くというあり方を伝えることによって、彼自身の他者に対する道徳的責務が果たされたのだと考えれば、この空白は埋められる。by吉永和加『〈他者〉の逆説』

2016-05-05 14:03:53
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「レヴィナスにおいて顕著な無限の責任は、他者を神の座へと押し上げる一方、その裏側で世界のすべてを担う、やはり神にも見紛う自我を復活させる」(吉永和加『〈他者〉の逆説』233p)。お前は他者に開かれてない、とか言う連中に限って偉そうな「お前」をもつ問題。

2016-05-05 14:07:37
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

吉永和加(242p)は、パスカルとカントを結びつけた、ゴルドマン『隠れたる神』の「悲劇的世界観」(vision tragique)という概念を頼りにレヴィナスとデリダの「あたかも~であるかのように」哲学を読み解く。メモ。

2016-05-05 14:10:32
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

ゴルドマンの「悲劇的世界観」とは、弁証法的止揚の手前の「過渡的な思想」。合理主義も信じられないし、経験主義も信じられない。でも、オルタナティブがあるわけでもない。程度や濃淡を許さない絶対を実現せよ、の要求を感じるものの、出口はない。この宙吊り状態にカントとパスカルの結び目がある。

2016-05-05 14:18:36
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「カントは、道徳的格率を採用する際の最初の主観的根拠を「心術」と呼び、その影響は、自由の使用全体に普遍的に及ぶ、と述べている」(吉永和加『他者の逆説』286-287p)。心術、カッコイイ。

2016-05-05 15:55:19
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「心術と区別して、偶然的な傾向性が可能であるための主観的根拠を「性癖」(Hang)と呼び、さらに、この性癖を源泉とする、道徳法則を格率に採用するか否かの選択意志の能力を「心情」(Herz)と名づけている」(『他者の逆説』287p)。心術/性癖/心情は違う。いつかどっかで使いたい。

2016-05-05 15:58:59
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

カントにおいては、善意志に基づいて、自由を仮構として立てることで、あたかも善意志のすべてを負いうるような自律的な自己が創出されたのである。ここに、あらゆることに法外な責任を負うという、レヴィナスにおける自己の原型を見出すことは困難ではあるまい。by吉永和加『他者の逆説』295p

2016-05-05 16:01:51
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「責任を果たそうとしても、各瞬間に逆説に裏切られて無責任に堕す可能性を常に孕む人間とは、「天使となろうとすると獣になってしまう」逆説のデリダ流の表現だともいえるのである」(吉永和加『〈他者〉の逆説』348p)。結論、とりあえずパスカル読んどけ。

2016-05-05 17:23:50
荒木優太(新しい本が出たよ) @arishima_takeo

「狭い道をますます狭くし、綱渡りをますます困難なものにしながら、我々がその都度迫られるのは、結局のところ、いかなる他者にいかなる責任を負い、いかなる罪を背負うのか、という「賭け」だったである」(『〈他者〉の逆説』356p)。最後誤植ってたので増刷した時にお願いします。

2016-05-05 17:31:15
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