専門家による合理性の追求と市民との距離

なかなか考えさせられる投稿でした。 最後に私の感想を載せてあります。 感想はコメント欄にお願いします。
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かまやん @kama_yam

慶應大生の山本みずき氏がSEALDsに指摘「排他性に危うさ感じる」 news.livedoor.com/article/detail… 「「安倍は辞めろ」の一辺倒だからダメ」という意見は勉強を始めた学生さんによくあるのですが怒りの表出は民主主義にとって決定的に重要。それこそ「冷静に」学んでほしい。

2016-05-03 19:30:14
かまやん @kama_yam

「合理性」を過度に信奉する考え方は、それ自体として市民の政治的意思決定への参加を遠ざける側面があります。以下はラングドン・ウィナーの『鯨と原子炉』から。 しばしば学者や知識人は、科学や技術や政治がもたらす負の側面を、その「合理性」を追求することで解決できると考えてしまいます。

2016-05-03 19:37:36
かまやん @kama_yam

吉岡斉さんの言うように「テクノクラート的な論法を用いて、政府の従来の政策の誤りを立証し、それと異なる政策の採用を提唱」しさえすれば、問題を解決できると考えてしまうのです。 しかしながら、「技術、社会そして環境についての論争では、極端に狭い観点に立つ概念が、

2016-05-03 19:42:41
かまやん @kama_yam

人々の受け入れうる議論の領域を制限することが多い。たいていの目的にとって、効率とリスク(またはこれらの変形)という問題だけが、十分に耳を傾けてもらえるものなのだ。より広く、より深い、またはより込み入った疑問はすぐ影の部分に押し込まれ、消え去るままにされる」。

2016-05-03 19:43:18
かまやん @kama_yam

私たちがそれに安んじれば「想像力の減退がもたらされる」でしょう(ウィナー)。 つまり、科学者や知識人、さらには学生が「合理性」を追求すればするほど、科学技術や科学技術政策、もっと一般的に言えば政府の意思決定から市民社会を遠ざけてしまうのです。

2016-05-03 19:44:46
かまやん @kama_yam

その意味で科学者や知識人は、「効率とリスク」の陰に隠れた問題群を意識して取り上げる責務があるのです。 これは憲法や安全保障、外交の問題だけでなく、経済政策や表現の自由をめぐる問題など、あらゆる問題にあてはまります。学生さんだからこそ、この点を意識してほしいですね。

2016-05-03 19:47:10

「合理性を追求し過ぎない」という事については、思いもよらない見方があると感心していましたが、以前見た資料のこういう記述を思い出しました。

「日本工学アカデミー原発事故・エネルギー問題検討会は、安全にはある程度のリスクが残されており、そのリスクが許容される水準の時「安全」と言い、(安心)=(安全)×(信頼)と表記でき、科学(安全)と価値観(安心)は分けるべきと主張している」

実務者である工学の専門家の立場としては一般社会に受け入れられることを慮って、一般市民の心情論的な要素を加味した基準を採っていることが分かります。

ここのところは、自然系や人文・社会系の学者との大きな違いと言えるでしょう。


一連のツイートの元ネタとなったSEALDsの活動のきっかけとなった、安全保障関連の法改正については、どのような内容であるかを確認すれば、日本の立場から見て、財政面でも安全保障面でも著しく合理性を欠くものであると言えます。

この件に関しては「中身は分からないけどサヨクが反対しているから賛成」という人が少なからず居たようですが、そのような市民の存在をどう考えるべきか?

どのようなプロセスを経たものであれ市民の選択なので、財政や安全保障の面で支障を来たすことがあっても受け入れるべきなのか?

その選択にはどのような問題があるのか、市民に知らせる必要はないのか?


結局のところ、合理性を追求しなければ、心情論に誤魔化されて、合理性を欠く不利な選択を受け入れさせられることになるのもまた市民である、という事が言えるのではないかと思います。

例えば「立憲主義は日本に合わない」というフレーズがちょっと話題になっていますが、そもそも合理的根拠が何もないただの言葉遊びに過ぎないこのフレーズが、市民の多くから支持されれば、立憲主義を放棄すべきと言えるのか?

少なくとも、合理性を追求する態度は、理性ある市民として堅持すべきなのではないかと思います。