【本多勝一様への返書③】「ゴメンナサイ=私の責任です=責任解除」は、日本教(人間教)における「懺悔→告解」/~子供がゴメンナサイと言わないことを叱るのは「相互懺悔の宗教教育」~

イザヤ・ベンダサン『日本教について~あるユダヤ人への手紙~』/本多勝一様への返書/あるいはまた三歳の童児か/192頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

⑥「私の責任=責任解除」は責任回避の意味ではないと書きましたが、この点、ややわき道にそれますが、少し説明を加えるべきかと思います。

2016-05-09 19:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦日本人の責任回避は、いわば「ほおかぶり」で、徹底的に応答を拒否するという形になりますが、表現の仕方が違っても、責任回避が応答の拒否であるという点では、どの民族もほぼ同じといえましょう。

2016-05-09 19:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧「ゴメンナサイ=私の責任です=責任解除」はもちろんこれとは別で、私はこれを日本教=人間教における一種の「懺悔→告解」と解しております。

2016-05-09 20:09:14
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨いわば「相互懺悔⇔相互告解」ともいうべきもので、お互いに…「ゴメンナサイ」「いや私の方こそゴメンナサイ」という形で、ちょうど「私は罪をおかしました…」に始まるカトリック教徒の懺悔を「人間相互」に行なうという形になり、それにより「和解」が成立する、といえると思います。

2016-05-09 20:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩それゆえ「私の責任=責任の解除」が成立するわけです。 『諸君!』に一例として記載した「子供がゴメンナサイといわないことを叱る」のも、一種の「相互懺悔の宗教教育」といえましょう。 これは日本教の「罪」もしくは「罪の意識」にも関係する非常に面白い問題です。

2016-05-09 21:09:06
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪ただこれは歴史的に解明すべきことです(もちろん漱石に実に多くの示唆があります)ので、将来の問題といたし、早まった結論は避けたいと思います。 「諸君!」では史的解明をなるべく避けるという前提で書いておりますので。

2016-05-09 21:38:53