「勉強家・文化人」としての徳川家康~細川幽斎との交遊などを中心に

みなさんの徳川家康のイメージの中に、「同時代の戦国武将の中では相当のインテリ」というのはあるでしょうか、ないでしょうか。 自分は、あまりありませんでした。 しかし、実際には相当に読書家で、文化にも興味が深く、そして図書館を作ってくれた偉い人のようです。そして後年は、これはトップクラスの教養人でもあった細川幽斎ともよく遊んでいたとか。そんな話のまとめです。アリノリ @a_ri_no_ri さんのツイートを軸にしつつ。
歴史 戦国時代 へうげもの 中世史 細川幽斎 本郷和人 徳川家康 近世史 アリノリ 司馬遼太郎
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アリノリ @a_ri_no_ri
家康が稲富一夢から砲術を学ぼうとしたときに、秀忠がプレゼント攻撃やら何やらで全力で細川忠興を説得している逸話があってちょっと笑った。(何故か細川家に関しては秀忠が担当していることが多い) その前(奉公構中)に忠吉が雇っていたのはどうなるんだ。
アリノリ @a_ri_no_ri
臨済寺は現在でもお坊さんたちが修行しているお寺なので、公開日時が限られますが、お庭も良いですし、見応えのあるお寺です。#真田丸
アリノリ @a_ri_no_ri
臨済寺で家康が勉強したかどうかは不明なワケで、そのため清見寺というもう1ヶ所勉強場所候補があったりする。両方とも臨済宗のお寺。#真田丸
アリノリ @a_ri_no_ri
そういえば、木曽さんも信濃衆として徳川の与力大名になったけど、もう出ないのかな。
アリノリ @a_ri_no_ri
そろそろ浜松城から駿府城に移った頃だなと思っていたら、やはり、駿府城が出て来た。前にも書いたけど、発掘調査の結果、最初の駿府城は今川館の構造を受け継いでいたらしいのが分かっている。
なご(無理をしない) @nago_o9
この辺りの時代を見ていていつも不思議なのですが、本能寺の変の時点では大名とはいえ「割とすごい」くらいで、今日の真田丸あたりでは上杉・北条(多分毛利も?)と同格くらいの徳川が、秀吉が死んだ時点で五大老4人+五奉行を合わせてようやく同レベルみたいになっているのは何がどうなったの?
アリノリ @a_ri_no_ri
@nago_o9 レスを失礼します。今回の真田丸あたりでは上杉とは領地面で同格ではありません。上杉は越後一国のみ、対して徳川は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国を領有していますので、北条、毛利あたりが同格でしょうか。また、官位も秀吉・秀次に次いで高くなります。
なご(無理をしない) @nago_o9
@a_ri_no_ri 上杉は謙信の時代には徳川よりかなり上の印象(官位などが)なのですが、天正壬午の乱の頃くらいにはもう追い越していたのでしょうか。豊臣に臣従した時点で家康はナンバー2群の一員みたいなものだった→北条が滅び毛利は領地から出る気がなかった、みたいな感じでしょうか?
アリノリ @a_ri_no_ri
@nago_o9 離れていたので遅くなりました。謙信の時代は徳川より上ですが、謙信が後継者を決めずに没し、内乱で衰退したのが大きいです。おっしゃる通り天正壬午で追い抜いています。臣従した時点で既に秀吉と義兄弟になっていますので、豊臣家以外で実質No.2になります。
アリノリ @a_ri_no_ri
@nago_o9 また、毛利は九州征伐や朝鮮出兵でこき使われて、財政的に苦しくなっていくのがマイナスかと。中央より周辺への領土拡大指向が強いのは、当時の大名等に共通していますので、毛利のみの特徴ではないと思います。
なご(無理をしない) @nago_o9
@a_ri_no_ri 確かに実の妹を嫁がせたのは家康だけですもんね。その時点で既に扱いとしては毛利より上で、実質のNO2だからこそ関東も任せたし、そこも上手くおさめたこともあって秀吉晩年には名実共にNo2に、という感じでしょうか。ちょっとわかった気がしますありがとうございます!
アリノリ @a_ri_no_ri
定家直筆鑑定団の(想像)流れ 慶長年間の某月某日 政宗「大御所、今度、我が家に伝わる定家直筆の古今集を献上します」 家康「定家直筆か…、真筆かどうか鑑定に出したことはあるのか?」 政宗「いえ、それが、まだ…」 家康「ふむ…」(続)
アリノリ @a_ri_no_ri
@a_ri_no_ri 夏の陣後の6月 政宗「大御所、定家の古今集です」 家康「うむ。為満、見てみよ」 定家子孫冷泉為満が鑑定 為満「…間違いございません」 家康「そうか。なら、政宗、大事にせい」 政宗「いえ、これは大御所様に」 と申し入れたが、家康が断り、この本は伊達家所有に。
アリノリ @a_ri_no_ri
@a_ri_no_ri 日野唯心もその場にいたが、長くなるので省いた。この日(6月23日)は真言論議を聞いたり、政宗が進上しようとした古今集鑑定があったり、訴訟があったりと割と忙しい感じ。(駿府記)
たまき@冬コミ29日D-29a @tamaki1853
@a_ri_no_ri @u_don_ 細川家記に元服前の秀忠に行儀を教えるように家康が忠興に頼んだという記載があります。裏を取ってないので、史実か分かりませんが、そう載せても不思議ではないくらいに昵懇だったんでしょうね
アリノリ @a_ri_no_ri
@tamaki1853 在京中の家康を細川幽斎が文化活動に嵌めた形跡がありますので、秀忠に忠興が行儀作法を教わっていてもおかしくないですね。ちなみに、『言経卿記』でカウントした所、秀吉没前に家康の所に遊びに来た回数ランキングの2位が細川幽斎でした。
アリノリ @a_ri_no_ri
徳川家康と細川幽斎は、家康が長く在京し始めるあたりから付き合いが確認でき、幽斎を通して家康の文化人ネットワークが形成されているのも確かっぽいのだが、この2人の関係は、在京中の家康のことが政治方面でしか取り上げられないこともあり、あまり言及されることがない…よな…。
たまき@冬コミ29日D-29a @tamaki1853
@a_ri_no_ri 幽斎そんなに家康のところに行ってるんですね。つまり幽斎の方が断然家康に近い存在だったんですね。世間話のついでにうちの息子に色々教えてやってくれみたいな話が出ても不思議はないですね。忠興が熱心に稽古してた茶道は武家の必修科目ですし。
アリノリ @a_ri_no_ri
@tamaki1853 家康・秀忠と幽斎・忠興という組合わせは、意外な感じがしますが、史料を読んでいくと何かと関係があります。家康が頼んだのは「あり」だと私も思います。
たまき@冬コミ29日D-29a @tamaki1853
@a_ri_no_ri 幽斎と家康が関係が深いのは知らなかったです。家康が忠興に行儀を教えるよう頼んだことがずっと唐突に思ってたのですが、幽斎と家康の関係を理解すればそんなに不思議には思えなくなりました。ありがとうございます。
たまき@冬コミ29日D-29a @tamaki1853
どうも私は忠興の事がめっちゃ好きらしい。
たまき@冬コミ29日D-29a @tamaki1853
だから贔屓の引き倒しにならないようにしたい。
アリノリ @a_ri_no_ri
@tamaki1853 こちらこそ、行儀作法教授の情報をありがとうございました。幽斎と家康の関係は「貴族の日記」を掘らないと出て来ないため、表に出にくいのかもしれません。
アリノリ @a_ri_no_ri
@tamaki1853 細川幽斎・忠興父子は縁戚関係で繋がりがある『兼見卿記』(吉田兼見)『舜旧記』(梵舜)『慶長日件録』(舟橋秀賢)への登場回数は当然多いですし、『言経卿記』にもちらほら顔を出します。恐らく、大名の中では突出して貴族の日記の情報量が多いと思われます。
アリノリ @a_ri_no_ri
細川幽斎は文禄三年に家康と遊びまくっているため、『言経卿記』で家康の所訪問&外出先で一緒をカウントすると、実は家康と一緒に遊んでいる回数が一番多くなる。家康の所を訪問するに限れば、浅野長政がダントツで多いが、外で一緒まで含めると幽斎が勝る。
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コメント

gryphon(まとめ用RT多) @gryphonjapan 2016年5月14日
家康晩年の息子、初代尾張藩主(名前忘れた)もすごい読書家で、江戸時代の名古屋は学問の府だった・・・という話を吉田神道の400年、という本で読んだのだが、盛り込めませんでした。
はよ @hayohater 2016年5月14日
gryphonjapan 徳川義直ですね。蓬左文庫をつくったり。
Ukat.U @t_UJ 2016年5月14日
秀吉もえらく勉強家ですよね。やはり幽斎に古典を習い、能と茶をよくし能筆家で囲碁も上手い。家康は人質とはいえ子供の頃から文化的なものに触れる環境にあったと思いますが、出自が低いといわれる秀吉は何がきっかけでこれほど勉強熱心になったのかしらん。
Kawai_Yusuke @fiddler_K 2016年5月14日
細川幽斎の絵を初めて見た。御子孫と似ていて笑ってしまった(本筋と関係ない)
アルビレオ@炙りカルビ @albireo_B 2016年5月14日
「家康は文化方面にも理解はあったが歌は下手だったしそういう自覚もあった」←これって「クリエイターとしての能力はないのでパトロンに徹した」ともいえそうですね。そのへんがクリエイター気質の織部とは噛み合わなかったかも。織部は自分でどんどん生み出せるから最新のトレンドリーダーだったけど、家康はそういうセンスがないから文化的なことを知れば知るほど古典的なものが好みになっていったのかもしれないですね。もちろん元からの嗜好もそっち寄りだったんだろうけど
こざくらちひろ @C_Kozakura 2016年5月14日
家康は医学に精通し自分で調合した薬を服用していたが、晩年自分の病(胃がん)を誤診して寿命を縮めたのがなあ。三国志演義の曹操とだぶる。
HI @tateita_HI 2017年1月13日
C_Kozakura 実際の所、胃がんの末期症状ではどうしようもないかと。
gryphon(まとめ用RT多) @gryphonjapan 2017年12月13日
家康の学問好き(&蔵書)は初代尾張藩主・徳川義直に一番色濃く受け継がれたらしく、そんな資料をhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20171213/p4 で紹介しました。
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