「勉強家・文化人」としての徳川家康~細川幽斎との交遊などを中心に

みなさんの徳川家康のイメージの中に、「同時代の戦国武将の中では相当のインテリ」というのはあるでしょうか、ないでしょうか。 自分は、あまりありませんでした。 しかし、実際には相当に読書家で、文化にも興味が深く、そして図書館を作ってくれた偉い人のようです。そして後年は、これはトップクラスの教養人でもあった細川幽斎ともよく遊んでいたとか。そんな話のまとめです。アリノリ @a_ri_no_ri さんのツイートを軸にしつつ。
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Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

家康は雅や文化に関心がない、というのはへうげものが、他と対比させるために強調しすぎたキャラクターだったですね… twitter.com/a_ri_no_ri/sta… @a_ri_no_ri

2016-05-12 08:49:44
アリノリ @a_ri_no_ri

細川幽斎は文禄三年に家康と遊びまくっているため、『言経卿記』で家康の所訪問&外出先で一緒をカウントすると、実は家康と一緒に遊んでいる回数が一番多くなる。家康の所を訪問するに限れば、浅野長政がダントツで多いが、外で一緒まで含めると幽斎が勝る。

2016-05-11 21:53:56
アリノリ @a_ri_no_ri

@gryphonjapan へうげものを読んだことがないので、「関心がない」の程度が分かりませんが、あれだけ文化関係に携わり、且つ金を出しているのに「関心がない」となると、それは徳川家康とは言い難いですね。

2016-05-12 18:30:39
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は政治的理由だけで文化関係に手を出している、と主張する人は足利学校庠主三要(閑室)元佶の毛詩講義を毎日受講して「政治的な理由だけでこれに耐える疑似家康体験」とかやってもらいたい。ちなみに息子にも参加義務が生じる。

2016-05-12 19:02:40
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri 関心がないことを毎日毎日聞けるワケねーだろー。

2016-05-12 19:04:38
アリノリ @a_ri_no_ri

細川忠興が秀忠に行儀作法を教える「機会」は秀忠が在京していて、忠興が朝鮮に行く前か帰国後になる。となると、天正19年か文禄4年あたりかな。文禄4年はお江と結婚があり秀次事件の年だから…、天正19年が無難ではある。

2016-05-12 19:15:21
アリノリ @a_ri_no_ri

細川忠興が徳川秀忠に行儀作法を教えていた場合、奥さん(正室)に対する諸々についても忠興が何か吹き込んでいたのかもしれないという疑惑が生じるのだが、さて…。 秀忠が忠興の影響を受けていたら、面白い。

2016-05-12 20:15:22
アリノリ @a_ri_no_ri

布橋も小豆餅も三方ヶ原の戦いとは無関係で、地名に合わせて「伝説」ができたんだよな。正直、三方ヶ原の戦いに関する話は「ネタ過ぎ度100%」しかないので、あれを信じる方が正直変だと思う。

2016-05-12 21:31:51
Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

あ、見直したら「へうげもの」には、家康がある時期から学問に目覚め学ぶ描写もありました。 (あくまでこの漫画のキャラでは)そういう面での文化、学問と「雅、数寄」を別物に捉え、後者を遠ざけるという人物像ですね @a_ri_no_ri pic.twitter.com/4854JDsxv5

2016-05-13 01:42:35
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Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

まったく余談ですが、同「へうげもの」での細川幽斎は、何代か未来の子孫をモデルそのままにして描いたことも話題になりました(笑) 本人公認。 @a_ri_no_ri pic.twitter.com/jnRC1EzYsR

2016-05-13 01:44:55
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アリノリ @a_ri_no_ri

@gryphonjapan 織部の死の要因を「数寄」にするためにそう描写しているのかもしれませんね。従者による京への放火と大坂方との内通により、茶の弟子であった「秀忠」の命令で自害となった可能性が高いと思うのですが。家康は下手ですが、歌の勉強も一応しています。

2016-05-13 07:40:36
アリノリ @a_ri_no_ri

@gryphonjapan 公認しているのが面白いですね。

2016-05-13 07:41:26
アリノリ @a_ri_no_ri

家康の場合、数寄や芸事に理解がないというよりは、得意ではないと言った方が近いと思う。歌を見ると分かるのだが、ストレートで素朴なものを詠む。当時は歌も茶道も「(一見そうは見えなくとも)凝った」ものが主流で、あれは十二分な下地と余力がないと難しい。

2016-05-13 07:51:34
アリノリ @a_ri_no_ri

@gine_ya 政宗の歌はよく知りませんが、いわるゆ当世風なのだと思います。数多く歌が詠まれた結果、昔の和歌と同じ表現になるのを避けるために、この当時は「過剰に凝った歌」を詠まざるを得なくなっていた、という背景があります。細川幽斎は当世風ではない余情のある歌を目指していました。

2016-05-13 18:19:30
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は本阿弥の言うことをあまり聞かず、良いモノ(刀)は自分で判断して無銘の相州伝を好んで佩刀していたらしい。ということは、家康が「(よく切れる)良いモノだから物吉」と名付けたとの謂れがある『物吉貞宗』は、家康の価値観そのものを反映してもいると言えるのか。

2016-05-13 19:53:15
アリノリ @a_ri_no_ri

本阿弥が探し出して進上した骨喰をそのまま本阿弥に下げ渡した家康は、本阿弥の進言で大坂城の刀の再刃をさせたのではないだろうか。(駿府記からの推測) 人の命は戻らないが、刀なら甦る。もしかして、供養のためだったのかも、と今日、ふと思った。

2016-05-13 20:14:39
アリノリ @a_ri_no_ri

@magi533 よく切れるから、の方は「刀剣名物帳」にあるようです。縁起がいいという謂れは、物吉の拵えに盲亀浮木図小柄が使われており、これに千載一遇の好機の意味があるため、家康の戦勝と合わせて物吉の+αの謂れをつくった可能性があると思います。

2016-05-13 20:26:39
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉の病が重くなった頃、家康は三要(閑室)元佶の毛詩講義を毎日受けている。足利学校庠主の講義に山科言緒らも参加しているが、秀忠の受講も分かる。秀吉に何かあれば家康は退出する。秀忠がいれば講義継続に支障がないのもあるが、秀吉が没したらソッコー秀忠を帰国させるためもあったろうな。

2016-05-13 21:42:53
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri 親子揃って京に留まっていた場合、下手したら、2人とも同時に暗殺される危険性があるしね…。次に秀忠が上洛するのは関ヶ原後。

2016-05-13 21:44:32
うなぎ(steel_eel) @dancing_eel

というか普通に残ってる肖像画を見ても『ワオ…遺伝子パワー…』ってなるからw pic.twitter.com/BtNHjuitBm

2016-05-13 23:08:26
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アリノリ @a_ri_no_ri

政宗が家康に定家直筆の古今集を進上しようとしたのは、その前(慶長19年3月)に家康が冷泉為満から「古今伝授」を受けているから、かも。「古今伝授」のお祝いとしての進上だったけど、真筆確認して返したのは、家康が歌は不得手という自覚があったため、かな。

2016-05-14 08:39:46
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri 政宗「古今伝授、おめでとうございます!」 家康「……政宗、それはイヤミか」 政宗「は?」 家康「先走って相手の地雷を踏み抜いているの分かれよ」 の可能性もあるか。

2016-05-14 08:51:11
Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

togetter用資料 この後半に、文化人としての徳川家康の話が。 / “【本郷和人の日本史ナナメ読み】家康カンパニーは平和で安心な「ホワイト企業」(1/5ページ) - 産経ニュース” htn.to/DGfe3D

2016-05-14 08:41:13
リンク 産経ニュース 【本郷和人の日本史ナナメ読み】家康カンパニーは平和で安心な「ホワイト企業」 ■“ホワイト企業・徳川”の文化貢献いま学界の主流は「織田信長は、特別な戦国大名では『ない』」という評価です。それはおかしい、信長が特別じゃなければ「天下統一」は… 1 user 134

勉強家で好学の家康は数多くの書物を収集し、後世に残してくれました。徳川将軍家の蔵書は江戸城内の紅葉山文庫として知られ(といっても、この呼称は明治時代になってから用いられたもので、江戸時代はもっぱら「御文庫」と呼ばれた)、明治維新後は太政官の管轄となりました。のちに内閣文庫に継承され、昭和46年に国立公文書館が設置されると、他の内閣文庫本とともに移管。一般に公開されたのです。

 『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂(へんさん)した正式な歴史書で、これをなくしては鎌倉時代の政治史は研究することができません。
…(略)
井上聡さんの研究によると、幕府を開く以前に徳川家康は全国に人を派遣し、時間とカネを使って、今あるかたちに復元した。それが『北条本・吾妻鏡』なのだそうです。

Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

togetter用資料 自分の「家康は『ちょっとだけ』インテリ」イメージは例によって司馬遼太郎のものだった。 「雅、数寄に興味がない」や「部下に知略より実直さを求める」もイメージの原因だったけど、よく考えたらそれ矛盾しないよな(続く pic.twitter.com/jq91tNRob3

2016-05-14 09:12:53
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