『監獄塔に復讐鬼は哭く』の台詞たちをゆる~くキリスト教的に解釈する
- RoystBrave
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嫉妬の罪だとか、そういうことが書かれているのがあの監獄塔のエネミー表示画面であった そして巌窟王の表記は「エドモン・ダンテス」 巌窟王いわく、「オレもファリア神父、あなたのように…」となりたかったものは「脱獄に成功したエドモン・ダンテス」ではなく打ち捨てられる死体であった
2016-05-15 22:10:55これ前に本垢でも語ったので聞いたことある人はごめんだが、あの監獄塔での戦闘で表示される名前は「ロール(役割)」だな
2016-05-15 22:08:39つまり個人的な解釈に過ぎないが、監獄塔のあの性質(一人しか出られない)を見るに、巌窟王が本来果たすはずだったロールは脱獄する側 エドモン・ダンテスであったのだ そして戦闘前の台詞の通りぐだを殺して(ファリア神父にして)いくことだったんだなあ
2016-05-15 22:14:15だが「お前はオレを殺してくれた!!」 即ち、どうしても遂行せざるを得なかったエドモン・ダンテスのロールを覆しファリア神父のロールとシャッフルしてくれた! こんな痛快なことはあるか!! ざまあみろ魔術王! 貴様の謀略はあえなくご破算だ!
2016-05-15 22:18:10つまり脱獄に成功したぐだーずと、そのために打ち捨てられる導きの死体であったファリア神父を重ねての「お前はオレを殺してくれた」なんじゃないかなあと個人的には思ってる
2016-05-15 22:22:43しかし巌窟王がぐだと戦うとき、こうも告げる 「残される一人は、当代のファリア神父となる。絶望を挫き、希望を導くモノとして命を終える。それはそれで、嗚呼、意味深き事ではあるのだろうよ(中略)おまえを第二のファリア神父として、オレは生きる。そしてお前の物語は終わる。実に簡単だ」
2016-05-15 22:26:14しかしメルセデスに対する返答の中では「オレを奴と同じにするな! エドモン・ダンテスだと――それは無辠の罪で投獄された哀れな男の名!そして恩讐の彼方にて、奇跡とも呼ぶべき愛によって、救われた男の名であり――決してこのオレではない」からの「ふさわしいはずがあるまいよ」
2016-05-15 22:32:09つまり巌窟王はエドモン・ダンテスのロールを遂行する役割があったが、もしぐだーずをファリア神父にできたとして、その先に救いは恐らくないし希望もない ぐだーずが希望を導くモノとして命を終えたところでそれは勝利とはかけ離れた何かなんだな だからこその勝利宣言の流れかなと
2016-05-15 22:38:32「オレも…絶望に負けぬ誰かを…おぞましい罠に落ちた、無辠の者を――我が、せめてもの希望として――」と言っているので、むしろ巌窟王とっての『絶望を挫き、希望を導く者(モノと表現したとき示すのは死体であった)』とはここでのエドモン・ダンテスのロールに乗ったぐだーずとなる
2016-05-15 22:41:57個人的に重要なポイントは巌窟王が「ファリア神父のロールを果たす」こと自体に関しては「気分は悪くない」「そうとも、オレは一度でも味わってみたかったに留めてるところで、『おぞましい罠に落ちた誰かが助かり羽ばたいていくこと』を『我がせめてもの希望』と呼んでいるところですかね
2016-05-15 22:45:37せめてもの希望ってのがまた泣かせる表現だよなあと思う せめてもの希望かあ、それが君が抱いてもいいものだと、復讐への信仰の中で見逃された、しかし叶うはずもないと諦めていたせめてもの希望の欠片かあ…
2016-05-15 22:48:15「お前はオレに導かれ、障害を砕き、塔を脱出する。それはなんと希望に満ちた結末であろうか」っていうの、その希望に満ちた結末を傍観する立場に立てるのは本来ファリア神父だけで、エドモン・ダンテスにも巌窟王にも許されてない立ち位置に立ったわけだから、巌窟王はそれを『勝利』と呼んだんだなあ
2016-05-15 22:55:48復讐の神、復讐の化身として人理に刻まれたのだから、そもそも救われることは最初から巌窟王を構成する要素には入っていない、だから巌窟王はそもそも復讐を成し遂げられてない(本人談)により、つまり途中で語っていた復讐された連中の顔だとか悲鳴だとかはエドモン・ダンテスの構成要素となる
2016-05-15 22:59:53実はあの記憶は巌窟王自身のものではないので、だから巌窟王は復讐の神でありながら復讐を果たせてはいないのだ さてちょっと話は逸れるが復讐とキリスト教の話でもしよう 「悪(オレ)を!殺せ!」の後に続く言葉はこうだ 「神の領分たる復讐をつかさどるこのオレを!傲慢の具現(以下略)」と
2016-05-15 23:03:51そういえば巌窟王さんの監獄塔イベで言ってること、ちゃんとバックグラウンドから理解したいなあと思って聖パウロによる『ローマ人への手紙』に目を通してたんだけど、なるほど12節によれば『復讐するは神にあり』であって元来のキリスト教の考え方では復讐というのは人間の役割ではないんだよなあ
2016-05-10 13:47:09『復讐は神様がやってくれるから、人は復讐せずともよい』ということなんだけど、監獄塔イベの中で巌窟王は『かつて男は復讐の神の名を叫んだが、哀れ男自身がそれに成り果てたのだ』と独白している そして復讐者というクラスで巌窟王は現界している
2016-05-10 13:49:15改めて巌窟王さんというキャラの成り立ちを整理してみると、物語が人々の信仰(そうあれかし=Amenという言葉を自分に向けられたものとして巌窟王自身が語っているので恐らく信仰と呼んで差し支えなかろう)によって成り立った英霊で、これを便宜上神と呼ぶのは不自然ではない
2016-05-10 13:51:57だから巌窟王さんが復讐という神の権能の領域に足を突っ込んでいることは、その成り立ちや本人の言い分を考えれば納得がいく。同時にこれは悪魔の証明的な話になるんだけど、カトリックベースの台詞が多い巌窟王の信仰を侵しかねず、尚且つ復讐者である己を復讐の神と嘯くのがある意味信仰に沿っている
2016-05-10 13:57:42まあつまり要約すると、キリスト教の教えの上での問題では巌窟王さんの復讐の神の話、案外ちゃんと沿ってはいるのだが、ゆえに傲慢ではある あのへんのくだりは宗教色が強い言葉遣いだな
2016-05-15 23:08:11うむ ここで『復讐は神の領分』かつ司ると言ってしまっているし、恐らく巌窟王さん結構信仰に篤いんだな pic.twitter.com/xktDR49daf
2016-05-16 02:24:49Fate的に巌窟王にモデルがいるかどうかの話をよそにするのなら、このあたりも興味深いかも 「そうあれかし」はAmenの和訳の一例だな pic.twitter.com/eKr7bni1iS
2016-05-16 02:29:50