二刀流が主流にはならなかったのは何故か?

二天一流は何故すたれたのか?という疑問をネタに二刀流剣術についての雑談。 ちなみに明治維新まで二天一流が廃れたことはなく、他の多数の剣術流派と同じく、明治~昭和にかけて後継者を得ることが出来ずに失われていったのが現実です。なお、肥後細川藩に伝わった多数の二天一流分派のうち、山東派と野田派は現在まで伝承され、多くの人に稽古されています。 (旧題:二刀流の剣術はなぜ廃れたのか?そもそも二刀流は廃れたのか?廃れてないのでは?)
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kurekure_kun @kurekure_kun

なぜ二天一流は廃れたのか。片腕の腕力で骨を断つ膂力が要求されたからです。

2016-06-03 17:47:20
トリック☆ファル @azufal

二天一流は詳しく知らんけど、これが理由だとしたら理合も身体操作も残念な流派だったって事になるので違うと思う。 刃筋通したり重さの制御、体捌きは両手持ちより難しいと思うし、その辺習熟した人はあえて二刀やる必要もなく強いやろと思うけど。 twitter.com/kurekure_kun/s…

2016-06-04 22:34:46
我乱堂 @SagamiNoriaki

@OokuboTact 二刀流がどうして少ないのかについては、最近の武道クラスタの考察では、歴史的なものと地理的なものが理由じゃないかって話になってましたわ。技法的に難易度が高いとか、実用性が低いとか、そういうのは多分関係ないだろうって。

2016-06-05 00:59:43
みんみんぜみ @inuchochin

「二刀流は何故廃れたか?」の答えは 「設問が間違ってる。そもそも二刀専門流派の登場が普通の剣術よりおそく、普及した地域も少ない」 そもそも二刀専門流派が無い地方では廃れようが無く、二刀専門流派があった地方では廃れず維新まで存続してます。なお二刀技法自体は全国各地の流派に存在します

2016-06-05 01:17:46

なお二天一流や圓明流などの武蔵の流派は明治以降まで全国各地に残っていました。肥後藩二天一流出身の加納軍次や鶴田三雄、岡崎藩武蔵流出身の三橋鑑一郎、鳥取藩の武蔵圓明流の鈴木卓郎などの著名な剣道家がいます。

みんみんぜみ @inuchochin

江戸で二刀流専門流派の道場がそれなりに流行した記録は宮本武蔵と青木鉄人でしょうが、武蔵は短期間、青木鉄人の道場も青木家が転居したのか、江戸時代中期にはすでに江戸に無かった感じです。 そもそも全国に流派が広がるためには江戸で道場をひらく以外方々は無いと言っても過言ではなく、(続く

2016-06-05 01:21:58
みんみんぜみ @inuchochin

江戸時代、日本各地から人が集まったのはやはり江戸で、江戸以外に優れた流派が存在してもゆっくりとしか広まりません。神道無念流の家元は戸ヶ崎家ですが、戸ヶ崎家から道場を譲られた岡田十松、その弟子で江戸で道場を開いた斎藤弥九郎の系統は全国に門人がいましたが、家元の戸ヶ崎家の門人は(続く

2016-06-05 01:26:59
みんみんぜみ @inuchochin

戸ヶ崎家の門人は基本的に戸ヶ崎家に近い埼玉から茨城西部に集中していたようです。江戸に出なかった示現流やタイ捨流、加賀の中條流、尾張柳生なども維新まで開祖、家元がいた地方を中心に伝承されてます。

2016-06-05 01:31:52
みんみんぜみ @inuchochin

話は戻って二刀流を表看板とする流派は記録に残る限り、宮本無二の当理流(無双流)、宮本武蔵の円明流や二天一流、青木鉄人の流派やその分流、あとは疋田豊五郎の首座流くらいです。 この中で江戸で教えたのは武蔵(ごく短期)と青木家(江戸初期)で、当然全国に伝わったのは青木家の二刀流のみです

2016-06-05 01:37:44
みんみんぜみ @inuchochin

ところが江戸にあったと思われる青木家の道場や弟子の記録は江戸初期のみで、江戸中期以降は各地に広まった青木家の武術がそのまま維新まで伝わった記録はあっても、江戸で新たに青木家で学んで地方に伝わった記録や江戸で青木家が道場を開いていた記録も見かけません。続く

2016-06-05 01:41:39
みんみんぜみ @inuchochin

時代は江戸後期になりますが、似たような例として一刀流の中西道場があります。江戸後期に全国各地に広まった小野派一刀流はほとんど中西道場で学ばれたものですが、幕末にはいきなり全く中西道場の記録がなくなります。どうもその頃に中西家が江戸からいなくなったようです。

2016-06-05 01:45:11
みんみんぜみ @inuchochin

江戸詰の藩士が帰国して江戸の道場を閉める例や、庶民出身の武芸者が地元に帰り江戸の道場を閉める例は多数あります。だれかが江戸の道場を引き継がないと繁盛した流派もいきなり記録がなくなったりするわけです。当然、それ以降新たに江戸から他の地方に広まることもなくなります(続く

2016-06-05 01:49:10
みんみんぜみ @inuchochin

流派が優れてる、というのは道場が評判になる理由にはなっても、江戸に道場が無ければ地域で広まるだけです。二刀専門流派、二天一流や鉄人流は伝わった地方では維新まで伝わってるので優秀な流派だったのだと思いますが、示現流やタイ捨流と同じく江戸に拠点がなく地方流派に終わったのだと思います

2016-06-05 01:57:17

江戸時代末に二刀流で全国武者修行をした牟田文之助について

三増 紋右衛門・おめでたい独楽(こま)の曲芸、承ります! @mon_emon

二刀流の実在に関心があるなら、鉄人流(二刀流派)免許皆伝の若者の武者修行ノンフィクションである、永井義男先生の【剣術修行の旅日記】は必読。 若い剣士同士のキャッキャウフフもあるので #とうらぶ 創作勢の資料にもなるで。 #刀剣乱舞 pic.twitter.com/IgesOSGO9T

2016-06-05 01:34:19
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我乱堂 @SagamiNoriaki

この鉄人流の牟田文之助って人、多分、バケツさんみたいな人だったと思うなw腕が立つけど基本、フレンドリーで、試合で勝つことも大切だけど、どんだけ気持ちよく試合できるかが大切かって感じの。

2016-06-05 01:39:41
三増 紋右衛門・おめでたい独楽(こま)の曲芸、承ります! @mon_emon

永井義男先生の文章も巧みで、専門的な話なのに読み易いんですよね。 「漫画しか読まない!」 て言う方は流石にキツイかも知れませんが、 「ラノベは読むよ」 って方なら全然OKなので、ぜひ手に取っていただきたい一冊ですφ(・v・※)。 twitter.com/sagaminoriaki/…

2016-06-05 01:47:18

江戸時代後期の試合剣術から明治の撃剣までの二刀流

福冨諭 /(' - ' ;)\ @fuktommy

.@inuchochin 二刀専門流派でなくても、二刀の型が含まれてるということだと思うので、それをヒントに打ち合い稽古で二刀を使う人が結構いたのか、打ち合い稽古は一刀対一刀でしょ的な(暗黙の)ルールが既にあったのか、その辺りが気になりまして。

2016-06-05 08:51:44
みんみんぜみ @inuchochin

@fuktommy 幕末明治だと高橋筅次郎の田宮神剣流や奥村二刀流、あとは牟田の鉄人流なんかが有名ですが筅次郎も牟田も明治初期に亡くなったり武道から離れてますし。各地の流派も地方によっては明治二十年前後に十年くらい活動停止してる例もあり、それぞれの事例を調べてみないと不明なのでは

2016-06-05 02:06:29
我乱堂 @SagamiNoriaki

@inuchochin @fuktommy 牟田文之助の日記には、時中流の人との交流とかについて言及がありませんでしたか。尾張円明流には竹刀での試合を盛んにしてた記録があった、ような…?記憶違いかな。

2016-06-05 02:17:01
みんみんぜみ @inuchochin

@SagamiNoriaki @fuktommy 尾張の円明流の最後の人はたしか昭和になってから亡くなってた記憶が。息子さんか孫がまだお元気で部道具店やってるんですよね。二刀の竹刀が遺品にあって大も普通の竹刀よりかなり短めです

2016-06-05 02:23:33
みんみんぜみ @inuchochin

@fuktommy 小太刀や抜刀術で剣術と試合する人が少ないのと同じ理由では?互角稽古から試合剣術が生まれたわけで、試合剣術が一刀対一刀なのは納得できます。二刀に限らず小太刀対一刀や薙刀、棒、槍対一刀などは流儀にあっても一刀対一刀より記録が少ない印象です。やはり公平感でしょうか

2016-06-05 09:40:46
ちていのき @baritsu

>RT だからこれが江戸期の実用性なんだろうと思う。乱戦はおろか真剣の立合いも一生経験しないような時代になると実用性の意味(存在意義)が変わるわけでそこで二刀は選択され辛くなる。地方なんかで早くに根付いたのは別にして広がりは発生しないと

2016-06-05 18:59:16
六葉@猫がねこんだアナコンダ @h_rokuyou

@baritsu 「江戸期の実用性」というのは状況が理解しやすい区切りですね。

2016-06-05 19:24:02