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科学の前提再考:客観性と批判的合理主義について。

以前、私は客観性は当然批判的合理主義の前提であると考えていたわけで、それ故に客観性の必然性と科学の条件との関係性を疑わなかったわけである。それが今回の意見にたいして、bornekillerさんが指摘されていた矛盾という点である。 しかし今回は私はその考えを疑い再考してみた結果、客観性は前提ではなくて結果であるとの結論に至った。それに対する対する批判、指摘、質問等を纏めてみました。
帰納 科学 客観性
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瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
科学が批判により常に説明力の高い理論が残りそうじゃないものが淘汰され知的領域が常に拡大することができる。しかし宗教は同じ教義を繰り返し自己批判的でもないし反証可能性がないのが違いですねRT@yokuyama 現代では科学が宗教の代わりを担っている部分が確かにあると思うんだよなあ。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
ですから、科学がstatisになって自己批判を怠って、ある理論を常に正しい理論としてしか考えなくなったら宗教と変わらなくなると思います~。RT@yokuyama 現代では科学が宗教の代わりを担っている部分が確かにあると思うんだよなあ。
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
しかし実際には新たな宗派が元の宗派を批判して生まれたりするわけですよね?RT @yutakioka しかし宗教は同じ教義を繰り返し自己批判的でもないし反証可能性がないのが違い
Toshihico Shiracawa @candidusflumen
RT @yutakioka: 科学が批判により常に説明力の高い理論が残りそうじゃないものが淘汰され知的領域が常に拡大することができる。しかし宗教は同じ教義を繰り返し自己批判的でもないし反証可能性がないのが違いですねRT@yokuyama 現代では科学が宗教の代わりを担っている部分が確かにあると思うんだよなあ。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
そうですけど、例えばキリスト教の新しい宗派がキリストの存在自体を否定することはできるでしょうか?つまりタブーが常にあるんですよ~宗教には。科学はそれがなく自由でどの理論も反駁しうる。RT@yokuyama しかし実際には新たな宗派が元の宗派を批判して生まれたりするわけですよね?
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
@yokuyama そういう意味で結局キリストの存在などは同じ教義が繰り返される、枝葉末節の解釈が違うのが新しい宗派です、ですがキリスト教におけるキリストのように、元の宗教の根幹は結局変わりません、神の存在も出来ませんし、”救い”の存在もキリスト教は否定できない。
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
すいません。僕自身も考えが整理できていないんですが、なんか程度の問題に過ぎないような気もするのです。RT @yutakioka: つまりタブーが常にあるんですよ~宗教には。科学はそれがなく自由でどの理論も反駁しうる
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
科学にも決して否定できない部分はあります。例えば目に見えることや論理、などのヒトの認知に関わる部分。RT @yutakioka: キリスト教におけるキリストのように、元の宗教の根幹は結局変わりません、神の存在も出来ませんし、”救い”の存在もキリスト教は否定できない。
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
ただ最近僕は、しょせん科学も絶対ではないんじゃないかなんて薄々感じるんだよね。究極の客観なんてあり得ないと。みんな同じものを見てるつもりだけど、実は違うものを見ているかも知れないことを否定できないと言うか。あ、なんか危ないヒトみたいやなあ。
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
まあでもそんなことも含めて、科学という思考体系を僕は愛していますし、たぶん信仰しているのでしょう。だってそれ以上に理性的なものの見方は無いわけだし。
職人/げるびらりあ @gervillaria
科学が絶対ではない、というのはある意味肝心要のところかと。そこに絶対が入れば信仰と化してしまいます。科学って「今のところ」「だいたい」これで良いんじゃないかな? という知見を集めたものじゃないかな、と。 @yokuyama
kumouke @kumouke
@yutakioka プラグマティックな側面が科学・宗教に共通している点は見過ごしてはいけないと思いますよ。実利的な面ではどちらも淘汰圧に晒されてきたのですから
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
科学に否定できないところがあったとしても科学はそれを検証・実験することを要求されます、しかし宗教は教義の確立に実験は必要ありません。RT@yokuyama 科学にも決して否定できない部分はあります。例えば目に見えることや論理、などのヒトの認知に関わる部分。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
もちろん、類似性はありますね。RT@kumouke プラグマティックな側面が科学・宗教に共通している点は見過ごしてはいけないと思いますよ。実利的な面ではどちらも淘汰圧に晒されてきたのですから
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
いえ、だからその検証の前提となる論理や認知は、神と同じく否定できないわけです。つまりそこには何らかの主観が入る。RT @yutakioka: 科学に否定できないところがあったとしても科学はそれを検証・実験することを要求されます、
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
そうですね、そもそも、究極の批判できない客観があるとしたら宗教と変わらないです。絶対はなくともより合理的で理性的な思考方法が科学ですよね。RT@yokuyama ただ最近僕は、しょせん科学も絶対ではないんじゃないかなんて薄々感じるんだよね。究極の客観なんてあり得ないと。
奥山雄大(ver.関西) @yokuyama
はい。より合理的、という比較級であれば、そうだと少なくとも科学者の一人として信じています。RT @yutakioka:絶対はなくともより合理的で理性的な思考方法が科学ですよね。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
もちろん主観か客観かが宗教と科学の違いではありません。それはポパーも述べています。そうでなく否定でき内容に見えることがあっても疑うことを奨励するか否かです。科学は「これは真実により近いけれどもあなたはより合理的で説明内容の多い理論を提示できますか?」と常に問いかけてくるものです。
kazy @gakeau
@yokuyama 純粋な客観性の否定なんて人文学的には恐ろしくいまさらな常識なんだけど、それが「危ないヒト」と思われちゃう自然科学ってなんなんだろう。そこを否定すると本当に自然科学は成り立たないんだろうか?
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
科学を絶対的な真理の探究であるという偽命題にとらわれて、科学批判をしている人はかなり周回遅れ。科学は絶対的な客観を目指すものではない、しかし合理的で批判的な思考を繰り返しているうちに結果的に客観的に成りつつあるということ。科学の客観化は目的ではなくて意図しない自生的秩序の結果。
徳川 家康 @bornekiller
@yutakioka 自然科学にとって客観性てのは前提なんじゃないんですか。逆に客観性にとって自然科学は全く前提ではないと思うのでたぶん逆です。
Kentaro Hayashi @ken_no_ji
絶対は無いと考える事を忘れてはならないと思います.パラダイムとは常に遷ろう可能性を持つものと思うのです. @yokuyama 科学も絶対ではないんじゃないかなんて薄々感じる/究極の客観なんてあり得ないと。みんな同じものを見てるつもりだけど、実は違うものを見ているかも知れない
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka
前提ではなくて、批判的合理主義という前提から引き出される「結果」です。RT@bornekiller 自然科学にとって客観性てのは前提なんじゃないんですか。逆に客観性にとって自然科学は全く前提ではないと思うのでたぶん逆です。
徳川 家康 @bornekiller
@yutakioka それは明らかにおかしいと思います。客観世界を受け入れた上で始まっているはずの自然科学が客観性を保証しているというのは些かも論理的だとは言い難いのではないかな。
@Kurodiamond
その偽命題に囚われるなど極めて非合理的。科学とは対極に位置する考え方だな RT @yutakioka: 科学を絶対的な真理の探究であるという偽命題にとらわれて、科学批判をしている人はかなり周回遅れ。科学は絶対的な客観を目指すものではない、しかし合理的で批判的な思考を繰り返し
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コメント

宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
帰納法に客観性が認められないとすれば、経験科学は、統計学等の帰納的な手法を利用しているので客観性を獲得しえない。一方、数学のような形式科学は帰納法は使わないが、弁証法的過程を経て客観的になるわけではないと思われる。以上が正しければ批判的合理主義の恩恵にあずかって客観性を獲得する領域は科学の中にはない。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
誤解されている方がいらっしゃるので、一言、初めから宣言しているように科学の目的は完全な客観性確保じゃなくて、よりよい意見の為の手段。 客観性は科学の目的ではなくて結果に過ぎない、何度も言いたくないが。なのであまりそれは批判にならない。 ポパー「科学的発見の論理」あるいは「推測と反駁」の参照をオススメします。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
また弁証法的過程など数学は通過するはずがない。 そもそも弁証法の推論規則は記号論理学でも形式化できていないことから論理的でも何でもないのは数学基礎論や論理学の知識があればすぐわかる話。 弁証法ではなくて、より厳密な証明手続を経て理論や数学の定理はより強固になる。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
まとめの中で客観性という言葉の指すものが揺れている感じがして気持ち悪かったのですが、yutakiokaさんの言う客観性の定義を答えてもらえないでしょうか?
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
それと、私が弁証法的過程といったのは、誰かが提唱した数学的理論に誤りがあったときに別の誰かがそれを是正するといったことが続くということをイメージしたので、二つ目のご指摘は当たらないと思います。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
答えていただけ ない
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
一応、後から考えたことをコメントしておきます。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
まず、宗教の教義についてであるが、まとめで例として挙げられているキリスト教の場合、その中心的教義である三位一体論やキリストの両性論すらも数百年にわたる議論の結果出来上がったものであり、最初から教義として頭ごなしに信じることを強要されていたわけではない。これらの中心的教義を認めない人たちは分派を形成し、その中にはキリストを神と認めない宗派すらあったが、現在ではそういった初期に分かれた宗派と主流派との対話が行われている。また、キリスト教の経典たる聖書について、それが経典であることには変わらないが、その内容につ
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
次に、現代物理学では観測者によって観測結果が異なる場合があるという点について、それは確かにそうなのだが、そのことを組み込んで理論を構成すれば特に自然が客観であるという命題は否定されない。そもそも、最初にbornekiller氏が言った客観性は思考に先だって存在するものであり、「自然が客観である」というのは形而上学的議論であるので証明も反証も不可能である。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
命題Aの証明と命題Bの反証から批判的合理主義と客観性が必要十分条件の関係にあると結論するのは、「客観性がア・プリオリには 存在しない」ことを前提としている。しかし上で示したように「客観性がア・プリオリに存在する」ことは反証されたとは言い難いのでこの証明は成り立たない。それ以前に、命題Aの証明と命題Bの反証からわかることは「批判的合理主義以外の方法では客観性が確保できない」であり、それは決して「批判的合理主義と客観性が必要十分条件である」と同値ではない。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
この同値関係、yutakioka氏の言う客観性がどういうものかわかれば成り立つのかもしれないが回答を戴けていない現時点ではわからぬ…
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
また、命題Bでは、反証中に帰納法が客観性を獲得しえない手法であると明言されていながら、枚挙的帰納法によって証明が終えられている。他に客観性を獲得する方策が思い浮かんだわけではない。しかし、考慮できる事例をすべて挙げていくというのは正に枚挙的帰納法である。よって、yutakioka氏の過去の主張http://p.tl/bPkF も合わせて考えると、氏による命題Bの反証は、「客観性には到達しえ」ず、「正当性が証明されたとみなせな」いものだと言える。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
ところで、批判的合理主義の下で経験科学的命題は、最初から正しいのではなく実験や実証から正しさ(というか妥当性の高さ)が確かめられる。この過程は演繹ではなくアブダクションであり、広義の帰納に含まれるものではないかと思うのだが…
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
ここまできてなんだが、別に客観的世界の存在を前提すべきだとは思わない。ただしその存在を前提することを棄却する根拠はyutakioka氏とは違ってプラグマティックな要請。実際、現在多くの自然科学で受容された構造主義は客観的世界を否定するのではなく客観的世界に「関わりを持とうとしない」ことでうまくやっている。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月10日
解説・反論等あればよろしくお願いします。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
命題Bについての論証は、帰納的という批判は当たらないはず、なぜなら、現象学にしろ形而上学にしろ、まずは「帰納では客観性には到達しえない」という大前提から始めている演繹的論証である。すこし分かりにくいかもしれないが。で小前提として現象学は帰納法であると形而上学は帰納法であるがある、それで結論は帰納的である(現象学にしろ、形而上学にしろ)客観には至れないとなるので論証が帰納的というのは誤解。その帰納法的思考例としてあれらがあると言話し、だから帰納法自体を否定しているので演繹的証明。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
この意見に対しても誤解があります、最初から正しいなど一言も言明しておりません、そうじゃなくて、仮説を実験、実証することを繰り返して正しいかどうかを判断するということです。で仮説をテストする過程は帰納ではありません、仮説という普遍言明があり、其れに対する小前提これが実験の条件に当たるわけですが、それでその帰結の妥当性を確かめる。つまり演繹的に帰結を確かめるのが科学の方法です。RTところで、批判的合理主義の下で経験科学的命題は、最初から正しいのではなく実験や実証から正しさ(というか妥当性の高さ)が確かめられる
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
また、私が客観を前提としていない理由は、究極的に、アプリオリな実在的自然=客観的自然は人間の能力では認識しえないからです。 また御指摘のように、私も客観とのかかわりを先ほどの科学的手続によりどう創られていくかに関心があります、それが合理的批判主義→実験、反証可能性のテスト→その結果としてより合理的な理論・より客観的自然的実在の振る舞いに近い現象の予測の正確さにつながっていくのだと思います、であくまで客観性はこの手続気の結果です。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
あと一つ、これは私の言葉が不十分でした。十分性は良いとして、確かに、あの証明だけから必要性を完全に証明できたとは言えません。言えるのは必要性を満たす要素である演繹的実証手続きを奨励する為の方法なので、必要性を満たす数ある候補の中の一つであるということですね。つまり数ある候補の中の一つでらることは論証できました。それで、かつその候補の中で最良と私が思えた理由は、プラグマテイックな要請(よりよい意見が奨励され、より説明力の少ない意見が淘汰される)に答えることができるからです。
徳川 家康 @bornekiller 2011年2月10日
ア・プリオリ(先験的な認識ありや)じゃなくて外に物理世界が広がっているだろなて感じは素朴に信じているんですが、それを誰もが全く同じ認識(認識主体に依らない)に至るとは考えてません。そこらへんのことをおっしゃりたいのかな?とも思いました。ただ人の数だけ科学が平行してあるべきてのも否です。(わたしの感じ)。んで、批判的合理主義でそれが統合できるてのは論理実証主義の立場なのかいなと。そこが合点がいかない。言葉の上。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
なので当然この二つの条件を満たしかつ、批判的合理主義よりも合理的である原理があるのならば、それも当然私の考えるプラグマテックな要請である必要十分条件(演繹的でかつより説明内容が多く合理的な理論によるそうで内理論の淘汰)を満たすものがあるのならば歓迎しますので是非教えて頂きたいものです。少なくともこれまでの科学史の中ではなかったわけですが。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月10日
これは全くその通りです。→(ア・プリオリ(先験的な認識ありや)じゃなくて外に物理世界が広がっているだろなて感じは素朴に信じているんですが、それを誰もが全く同じ認識(認識主体に依らない)に至るとは考えてません。そこらへんのことをおっしゃりたいのかな?とも思いました。ただ人の数だけ科学が平行してあるべきてのも否です。) しかし 今、批判的合理主義だけで統合できるとは思えませんがその道筋は原理的にはある(実際の蓋然性は分からない)とは思います、確かに確実に統合できるとまで断言すれば論理実証主義的であるかもしれ
徳川 家康 @bornekiller 2011年2月10日
プラグマティズムですか。アメリカ的だ。この文脈で出て来たのはとても新鮮。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
普通、科学の分野で「客観」というと、誰がやっても「同じ」という意味ですよね。「同じ」という単語の意味は、例えば量子力学だと一回一回の実験結果は異なっても、何回も繰り返して分布をとれば一致する。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
「自然の斉一性」という単語も同様。だから、@yutakiokaさんの「自然が客観であるという前提=自然の斉一性は量子力学の世界ですでに崩れました。」というのは、科学畑の認識とはだいぶ乖離していると思う。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
科学としては実用上、そのような、自然科学の大前提に客観性を置くという認識で特に困っていないように思います。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月11日
ええとですね、ここは少し補足が必要で、同一条件で再現可能性があるので確かに振る舞いは決定できるのですが。量子論の世界では実在的な自然が存在しているといえるのだろうか?という話なのです。
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka 2011年2月11日
客観というのは私の定義ではこのイデアルな自然に当たるわけで、それは基本的には不可能な話なんですね。故に不可能なものを前提にするというのはかなり不都合なんですね、ですから、私のスタンスは逆で科学的手法を用いてよりよい理論が出される過程で客観に近い状態が創られていけばよいということなのです。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
@yutakiokaさんと@sakumichiさんのやりとりを見て、議論の流れや言葉の違いが少し理解できました。僕はsakumichiさんの見解にほぼ同意します(もっとも、科学哲学の方で「実在」に関する議論はかなり積み重なっていて、量子力学においても素朴ではない「実在」を仮定する人はいますが、そこについては論じません)。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
(僕の理解するところの)yutakiokaさんの意味での〈客観〉は(僕の言葉での「実在」に近いものと思っています)、基本的に科学とは全く独立だと思っています。実験器具に行う操作(つまみを回した、等)と、認知する実験結果(針が3を指した、等)は完全に〈客観〉です。科学の理論は、実験器具に行う操作から、後に認知する実験結果を予言出来れば、それで十分だとする立場はありえます。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
この立場によれば、実験器具に行った操作から、「本当の自然」がどう影響された結果、ある実験結果を認知したかというメカニズムはどうでもよくなります。もちろん、科学の理論はその経緯に一定の道筋をつけますが、それが「本当の自然」と一致している必要はない。というより、一致しているかどうかなど人間には分からない。
bra-ketくん @mac_wac 2011年2月11日
この立場は、〈コンセンサスとしての自然〉を〈イデアルとしての自然〉に一致させようという試みを完全に放棄しています。ですが、理論による結果の予言を実験結果と比較するという科学者の営みとしては全く変わらないので、問題なく科学は出来ることになります。実際に、そういう立場をとっている科学者(特に物理学者)も存在するでしょう。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
命題Bの反証について。それでは反証できたことになりませんよ。帰納的な方法に限ってはそれで反証できたとしても、yutakiokaさんは神を大前提に置くという方法をあげているでしょう。それは、批判的合理主義と帰納的方法以外にも、客観性に到達する方法(の候補)が現れうるということです。だから、帰納的方法では客観性に到達できないと証明しても、「批判的合理主義以外に客観性に到達する方法がない」ことが一般的に証明されたことにはならない。だから、帰納的方法と神を大前提に置く方法とを個別的に証明している、帰納的な証明だと
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
続)指摘したわけです。 しかし、続くコメントでyutakiokaさんが、「現在考えられる中では」批判的合理主義が最良のものであることをおっしゃっているので↑は話の流れの中で意味のない指摘になりましたね。そして批判的合理主義より良い原理など思いつけません…
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
次ですが、誤解を招く表現をしてしまいました。件の過程は、仮説を普遍言明としてそこから何らかの帰結を導くという点に注目すれば確かに演繹です。しかし、これ(演繹)だけでは批判的とはいえません。独断論に陥ります。それで、実験・実証の結果が仮説から適切に導出された場合に後件肯定的に仮説の妥当性を認めるわけですが、これはアブダクションであり、広義の帰納に含まれます。つまり、件の過程はある観点からは演繹であり、別の観点からは(広義の)帰納であると言えます。この2つの特性があって初めて批判的合理主義は成立します。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
最初、yutakiokaさんに関して、両方の記事にある表の中で、左下の立場に属するのかと思っていたのですが、どうも右上に属するようですね。試しに右上の例として挙げられている「道具主義」の項目を見てみると、yutakiokaさんの主張とよく合致する。道具主義では、人間の営為に先立ってあるような客観性は扱わない。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
先述したように、現在多くの自然科学ではこれとほぼ同じ思想を受容していて、同様にア・プリオリな客観性を扱わないようにデザインされています。例えば、量子力学で登場するレプトンやヒッグス粒子などといった微粒子は「構成概念」として扱われます。これは、件の粒子が実在するかということについて、自然科学の中では議論されず、宙ぶらりんな状態にとどめ置かれるということです。微粒子のような非日常的なものではなく、人々が普段素朴に実在すると信じているようなものであってもこういった自然科学の対象となった時には構成概念として扱われ
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
続)ます。 ただ、現在大学で自然科学を専攻する学生は必ずしもこういった科学哲学の理論を教育されていません。そのため、少なからぬ自然科学者が、「mac_wacさんの述べてくださったような意味での客観性」に到達した時点で「ア・プリオリな客観性」を把握したと考えたり、先に挙げたWikipediaの記事の表で左上にある科学的実在論を信じていたりするという齟齬があります。
宣教師 @sennkyoushi 2011年2月11日
mac_wacさんと内容的に少しかぶってしまいましたね。すみません。
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