思索メモ:ブルックナーとマーラー

本日の電波。自分以外に解読できる人間がいるとは思えない。
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谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

「ersterbend(死に絶えるように)」の解釈に導かれて、マーラーについて思索する。マーラーは、例えば『パイドン』において<神話>を語るソクラテスであり、明らかに<語りえぬもの>を語(騙)るタイプの作曲家である。それは、ブルックナーならば、決して語ろうとはしないものである。

2011-11-19 20:06:12
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

マーラーの諧謔性というのも、案外こんなところから来ているのかも知れない。ベートーヴェンの第9交響曲もマーラー的だが、ベートーヴェンはもっと真面目であり、ちょうどブルックナーとマーラーの中間に当たると考える。ブルックナーは常に、ベートーヴェンの一歩手前に留まり続ける。

2011-11-19 20:18:54
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

内田百閒とのアナロジーで言えば、<語りえぬもの>に対する態度の点で、ブルックナーは『冥途』の百閒であり、マーラーはより『旅順入城式』的と言うことが出来る。そして、結局ぼくはブルックナー=『冥途』の百閒の方が好きなのだ。しかし文学の仕事は後者(マーラー的なもの)だという気もする。

2011-11-19 20:46:58
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

なお、「山高帽子」をターニング・ポイントとする説(山本岳志「『冥途』と『旅順入城式』の間にあるもの」 http://t.co/Pozemy1z)に従うなら、ブルックナーとマーラーとにおける「山高帽子」的な存在とは、無論ベートーヴェンの<第九>である。これは蛇足。

2011-11-19 20:58:56
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

しかし、するとマーラーの9番については、どう考えればいいか? 死を前にしたブルックナーですら、その9番の最終楽章を殆んど作曲し終えていたにも関わらず、ブル9の第3楽章からの影響の認められるアダージョ楽章において、マーラーは<ersterbend に>最後の交響曲を結んでいる。

2011-11-19 21:19:23
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

これは明らかに(ブルックナーより手前の地点への)<退行>である。尤も、マーラーにブル9のフィナーレ草稿を目にする機会があったのかどうか、ぼくは知らない。マラ9の件に関して、差し当たりぼくの解釈はない。これまでの解釈も、マーラーについてはそれほど当を得たものではないのかも知れない。

2011-11-19 21:27:32
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

以上、マーラーの7番を聴きながら考えた「本日の電波」でした。粛々と纏めますー。ブルックナーと内田百閒については自分のなかである程度イメージが固定しているのですが、マーラーは依然として不定形な感じ(そんなに聴いてないし)。見落としている視点があったら、教えて下さい。

2011-11-19 21:38:32