- keisukekirita
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「わかる」ことが当たり前の世の中に、「他の人にはわからない」ことがあることを立ち上げることは、難しい。
2013-07-31 21:42:11「当たり前」と、「ふつう」は違う。理想が現実に打ち破られて、けれどそのことを隠して、同じく打ち破られた他の人たちと傷を舐め合っていることも忘れたとき、「ふつう」が生まれる。
2013-07-31 21:45:58「ふつう」を進めてくるひとたちと接していて疲れるのは、彼ら/彼女らの背後に、ほんとうはこんなことしていたくはない、こんなはずじゃなかったんだという影が見える(ような気がしてしまう)から。
2013-07-31 21:47:28孤立や不安を埋めることが「ふつう」、あるいは「仕方ない」という言葉の意味だ。それがために生きるなら、たとえばシーシュポスに同情はしても共感できはしないだろう。あるいは夭逝したひとに憐れみを覚えても同じ境遇には立ちたくないと思うだろう。
2013-07-31 21:51:34「当たり前」は孤立も不安も死も生きることと同じことだと捉えることだ。身もふたもないが、それ以上でも以下でもない。いつか訪れるものでも、いつか解放されうるものでも、いつか解消されるものでもない。
2013-07-31 21:56:14だから、「当たり前」にあらゆる日々を大事にできる。「ふつう」であるかどうかで、日々の意味や価値を切り捨てない。
2013-07-31 22:00:46構造構成的に、死生論を考えるなら、死も生も分節化されたものでしかないので、「現象」を尊重するということは、死者と生者を分けず、その経験の意味や価値を大事にしよう、ということになる。たとえ私が既に死んでいても、その経験の意味や価値を大事にすることは出来る。
2013-07-31 22:04:36そして、「ふつう」からでなく、死や生からでなく、「当たり前」に現象の意味や価値を大事にするということは、あらゆる人生を肯定することと同じことだと気付くことが出来たら。
2013-07-31 22:10:24あらゆる「いのち」は、ひこうき雲のように、それぞれが代替出来ぬひとつの線として立ち現れることだろう。それはふつうの長さや厚さ、太さからその意味や価値が判断されることの無い、そもそも実在さえしてなくたって、「当たり前に」大事な現象なのだ。
2013-07-31 22:17:11ちょっと書き過ぎたけれど、このあたりのことをずっと最近、多分もっと前から考えていたのだ。あまりにも「ふつう」から外れた人生や、生まれてさえ来れなかったいのち。それらは、「ふつう」のひとたちから憐れまれて、差別され、そのひとたちの「ふつう」を強めるだけだった。
2013-07-31 22:26:58このあたりのことを、結局突き詰めたくて、学問をしているのだ。まわりの人たちが次々に「ふつう」になっていく(ふつうになれたけど、ほんとうはこんなはずじゃなかったという影を引き連れていく)のを見ながら、自分もいつのまにかその影を纏っている。
2013-07-31 22:32:13不安や孤立や死をいつか訪れるかもしれないもの(確率論的なもの)と捉えることから始まるこれらの恐怖は、誰にも逃れられないものなのだろうか、この差別はいつまで続くのだろう?
2013-07-31 22:28:10@KeisukeKirita 大学の講義でよく「死後の世界」と「“死”後の世界」ということでこの周辺の事を取り上げることがあります。「死後の世界」は実は生の様態の持続であって、いくらそれを説いたとて「死」は見えてこない。「死」という概念を一度括弧に入れる事で逆にそれを浮上させる。
2013-07-31 22:12:20@Koudaretsu 確かに死後の世界は生の持続ですね。でも、最近僕は死と生の二分法が不毛だ、というように感じています。僕は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない、でもそんなことを越えたところで、現象を尊重することは出来る。死だって大事にできる。
2013-07-31 22:35:30