原発事件によって発生した言説の背後にある日常のイマージュ(イメージ)

原発事件によって発生した二つの代表的な言説(危険厨、安全厨)の背後には共通の日常のイマージュ(イメージ)あるように思われます。今回はその背後にある日常のイマージュを、日常のイマージュが不可視化してきた(している)ものから考察してみました。なお、この議論はあくまで学問上のものです。「実務にたずさわる政治家は、理論的な政治学者とは仲が悪く、並はずれたうぬぼれをもって政治学者を机上の空論と軽蔑し、国家はもともと経験の諸原則に基づくはずのもであるから、政治学者が無内容な理念を説いても国家にはどんな危険ももたらすことはない~」カント
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zutabukuro @ClothSack

原発論をば。以前@Lucifer_Gnosis さんが今回の原発の問題に関して「暴力的なものの現出」とツイートされていた。日常の中に非日常的なものが出現した、これが今回の事件に対して人々が持つ一般的な感覚ではないだろうか。しかし、この非日常性はどこまで非日常なのだろうか?続

2011-05-07 22:19:26
zutabukuro @ClothSack

今回の事件における非日常性は端的にいって認識と程度の問題でしかない。今から40年以上も前から存在している原子力発電所が強く認識されるようになったこと、日常的に浴びている放射線の量が過大になったこと(それによる害は大きくなったが)である。続く

2011-05-07 22:27:50
zutabukuro @ClothSack

つまり、存在の次元では非日常は何も新たに出現していないのである。それでは、なぜこの事件がこれほどの非日常性をもつものとしてとらえられているのだろうか?それは、今まで見ていなかったものを、鍍金し見えなくしていたものを、見ざるを得なくなったためではないのか?続く

2011-05-07 22:37:52
zutabukuro @ClothSack

ここで、次のような問いが立つ。我々は、いかなるイマージュ(イメージ)を日常としているのか、それは何を見えなくしているか或いは見たくないのかということである。続きはまた後日、なんだか眠くなってきた。

2011-05-07 22:47:43
zutabukuro @ClothSack

こんな時間に起きたので原発事故論の続きでもしますかね。一昨日の話をまとめると、今回の原発の事件がこれほどの非日常とされる裏には、いかなるイマージュ(イメージ)を日常としているのか、それは何を見えなくしているか或いは見たくないのかということが絡んでくるといったところです。続

2011-05-10 03:07:14
zutabukuro @ClothSack

今日の日常のイマージュを考える上で重要なのは、その内でいかなる言説が生産されているかということ。たとえば、信仰的日常のイマージュであればそこで生産される言説は信仰的(神的)なものとなる。今回の原発事件で生産されている言説、代表的なものとして危険厨と安全厨の言説が挙げげられる。続く

2011-05-10 03:15:05
zutabukuro @ClothSack

危険厨の言説はやたらと危険を強調し、安全厨の言説はやたらと安全を強調するというもの。如何なる日常のイマージュがこの相反する言説のもととなりうるのだろうか。また、イマージュがいかなるものを不視覚化させることによってこれらの言説が生まれるのか。それを解き明かす鍵は、出現である。続く

2011-05-10 03:21:35
zutabukuro @ClothSack

今回の原発事件の非日常は、非日常の出現として表象されているといえるだろう。しかし、原子力発電所や放射性物質は日常から存在しており、存在次元において何らかの出現とは言いにくい。あえて正確にいうならば何らかが塗布されていた日常の暴露である。続く

2011-05-10 03:32:17
zutabukuro @ClothSack

つまり、原発や放射能は今日における日常のイマージュが不可視化するものである。ここから次のことが言えるのではないか。安全厨とはすなわち、日常のイマージュによる不可視化、或いは何かの鍍金・塗布、が剥がれ落ちることを恐れている人々であると。続く

2011-05-10 03:41:17
zutabukuro @ClothSack

では、危険厨はどのように考えることができるだろうか。安全厨が何かが剥がれ落ちることを恐れているのだとするならば、危険厨はそのなにかが剥がれ落ちて見えてしまった隠された日常が日常とあまりに異なること対しておそれを抱いている人々と言えるのではないだろうか。続く

2011-05-10 03:51:25
zutabukuro @ClothSack

危険厨、安全厨ともにその根幹には日常のイマージュによる不可視化が潜んいる。では、そもそもの根本である今日の日常のイマージュとは何なのだろうか?ここで、発想を逆転させてみよう、日常のイマージュが不可視化しているもののイマージュから日常のイマージュを考えてみるのである。続く。

2011-05-10 04:05:53
zutabukuro @ClothSack

昨今不可視化されてきているものはいったいなんなのか。大づかみではあるが具体的なものを挙げていくと、それは体臭(1990年代後半から)であり、愛に含まれる性であり(純愛ブーム)、子供の性であり、繁栄の裏の低賃金労働者であり、今までは原子力発電所自体であった。続く

2011-05-10 04:20:22
zutabukuro @ClothSack

これらに共通するイマージュとはなにか?それは、不健全・不健康さらに言えば不衛生である。これらは、日常のイマージュに対する黒であり、日常のイマージュに対する敵であり、日常のイマージュに対する病原菌である。では、これらを不可視化する(しようとする)日常のイマージュとは何だろうか。続

2011-05-10 04:36:34
zutabukuro @ClothSack

それは、健全・健康・衛生である。不可視化されたイマージュに対する友であり、ワクチンであり、白である。さらに言えば、純白のリンネルである。今日の日常とは純白のリンネルなのである。一点の黒きシミすら許るされないリンネルである。続く

2011-05-10 04:54:48
zutabukuro @ClothSack

黒き原発とそれを覆い隠していた日常という名の純白のリンネルのイマージュ、これがはぎ取られたことにより慌てふためく、これが今日の非日常である。(終)ちょっと尻切れトンボ、というか疲れてきた・・・。

2011-05-10 05:06:30