作家、高橋源一郎さんの「堀江敏幸・著『なずな』を読んで」
- toshihiro36
- 22174
- 1
- 0
- 3
少し前に、堀江敏幸さんの『なずな』という小説を読んだ。主人公の「私」は、ある事情で、弟夫婦の(生まれたばかりの)赤ん坊を育てることになる。しかも、独身の中年(よりは若い)男性だ。その、「なずな」という名前の赤ん坊を、ひとりで育てながら、「私」の考え方は少しずつ変わってゆく。
2011-06-18 23:58:16それは、その赤ん坊が「かけがえのない存在」だとということなのだが、どうも、昔、考えていた「かけがえのない存在」とは、違うらしいのだ。「私」は、こんなふうに考える。「なずなは、生後三カ月を過ぎた赤ん坊である。女の子である。このふたつの条件を満たす存在は数限りなくあるのに…」
2011-06-19 00:01:16「…なずなは、なずなでしかない。せりでもはこべらでもなく、なずなでしかない。『私』とはなにか、『ぼく』とはなにかを考える思春期の悩みは、第三者に向けられることがないから、かけがえのない存在、といった言い方はつねに閉じた響きをともなく。だから、親となった人々はみなどこか…」
2011-06-19 00:04:02「…悟った顔になり、子のない人々にそれとない圧力をかけているように見えてしまう。しかし、そうではなかったのだ。いまになって、子どもたちと教室で読んださまざまな文章が胸に沁みてくる」。そして「私」は、まど・みちおの「ぼくが ここに」という詩を引用するのだが、ぼくは圧倒されてしまった
2011-06-19 00:07:00「ぼくが ここに」を引用してみる。「ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない/もしも ゾウが ここに いるならば/そのゾウだけ/マメが いるならば/その一つぶの マメだけ/しか ここに いることは できない」
2011-06-19 00:11:19「ああ このちきゅうの うえでは/こんなに だいじに/まもられているのだ/どんなものが どんなところに/いるときにも/その『いること』こそが/なににも まして/すばらしいこと として」
2011-06-19 00:13:22主人公の「私」は、昔、この詩を読んだ時、冒頭の「ぼくが ここにいるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない」に魅かれたのだ。そこには、「自分」の「かけがえのなさ」が歌われるいるような気がしたから。
2011-06-19 00:15:54けれど、実の子でもない「なずな」を育て、しかも強い愛着を抱くにつれ、「私」は、最後の節の「いること」に、この詩の中心があるのではないかと思うに至る。「人は、親になると同時に、『ぼく』や『わたし』より先に、子どもが『いること』を基準に世界を眺めるようになるのではないか…」
2011-06-19 00:19:00「…この子が、ここにいるとき、ほかのどんな子も、かさなって、いることは、できない。そしてそれは、ほかの子を排除するのではなく、同時にすべての『この子』を受け入れることでもある。マメのような赤ん坊がミルクを飲み、ご飯を食べてどんどん成長し、小さなゾウのようになっていく…」
2011-06-19 00:21:25「…そのとき、それをいとおしく思う自分さえ消えて、世界は世界だけで、たくさんのなずなを抱えたまま大きくなっていくのではないか」
2011-06-19 00:22:28まど・みちおの詩にも、堀江さんの小説にも、共通してあるのは、「自分を中心とはしない」考え方だ、とぼくは思う。ぼくたちは、「ぼくはなに」「ぼくはなんのために生きている」という考え方から、なかなか逃れられない。けれど、子どもを見ている時、そのことをすっかり忘れているのである。
2011-06-19 00:25:24ぼくもまた、一日中、子どもを見つめている。そんなに熱心に他人を見ることは、ほかにはない。おそらく、恋愛がもっとも燃え上がっている時の恋人を見る時以外に、そんな風に見ることはないだろう。そのような視線だけが「いること」を確認できるのである。
2011-06-19 00:30:33だが、とぼくは思う。ぼくたちは、みんな、かつて、その視線で見つめられた経験があるのだ。ずっと昔、親たちは、ぼくたちを、「こんなにも だいじに まもられている」ものとして、激しく見つめてくれていたのである。自分よりもずっと大切な、唯一の存在として。
2011-06-19 00:33:06