田中功起のビデオ作品「Someone's junk is someone else's treasure」について
青山I目黒の田中功起展出品のビデオ作品「Someone's junk is someone else's treasure」について。アーティスト本人がアメリカのフリーマーケットで椰子の葉を販売するという作品。
2011-08-05 20:30:19ほとんどの人にとってはゴミでしかない椰子の葉が人によっては価値を持ちうるという、物の価値の変化がこの作品では問題となっている。ここで重要なのは、フリーマーケットで販売することによって、売る買うという関係が前景化していること。田中功起展。
2011-08-05 20:33:02物を売るとき、どんな人が買うか、買い手が物にどんな価値を見いだしているのか、そもそも買い手が現れるのかさえ売り手には分からない。(実際ビデオの中で椰子の葉を買おうとする人は誰もいない) 売り手はいつもその不確定性の中で物をうる。田中功起展。
2011-08-05 20:34:52もう一度作品のタイトルに戻ると、「someone's junk」と「someone else's treasure」の間の「is」の部分が売り買いの関係の発生する場であり、そしてその売り買いが成立した時に同じ椰子の葉のままでありながらjunkがtreasureへと変容する。
2011-08-05 20:37:08したがって、その不確定性を考慮するならば、「is」という確定的なものより「can be」や「may be」などの方がむしろふさわしいかもしれない。田中功起展。
2011-08-05 20:38:49ビデオの中では最後に、規定に違反するということで椰子の葉が出品者のアーティストとともに撤去されてしまうのだが、フリーマーケットもひとつの展示の場とするならばその場の均質性を異質分子として暴いているとも言えるだろう。田中功起展。
2011-08-05 20:41:03しかし一方で、フリーマーケットというもの自体ゴミとしか思えないような物が多く売られている場であり、実際それらの物は価値を見いだす人がいなければコミでしかないし、椰子を売るという行為はフリーマーケットの中で異質であるというより、その本質を凝縮した形で見せていたと言えるかもしれない。
2011-08-05 20:42:53@cezannisme ツイートを拝読していると何やら曽根裕(の他人を巻き込んだ映像作品)臭がするところですが、違いがあるとしたら、「最後に撤去されてしまう」ところまで含めて作品であるというところなんでしょうか。やはり
2011-08-05 22:00:57@atashika_ymyh リレーショナル・アート的に初期曽根と共通する部分はあるかもしれませんね。松井みどりなら結びつけそうです。でも、売ろうとするプロセスが大事だったりするところなど、違う感触もあるんですよね。まあ両者の作品ともあまり観ていないので、なんとも言えませんが。
2011-08-05 22:08:12@cezannisme どうも当方リレーショナル・アートには手厳しく接するところがありまして(^^; テメエが表現したいのは関係性ではなく「関係ありたい」という下心なんじゃないのか、と半畳を入れたくなることもあります(爆)。最近はそういう下心を「想像力」と言うらしいですがww
2011-08-05 23:14:01@atashika_ymyh 僕も関係性の美学は好きじゃないですね。閉ざされたコミュニティでしかないですからね。クレア・ビショップ論文はまだ読んでいませんが。曽根はそういう所があるとは思いますが、僕としては田中功起の作品にはそれとの差異を見たいですね。
2011-08-05 23:17:58@cezannisme 展覧会に接したわけではないのでアレですが、やはり「売り買い」を主題にしていることと「最後に撤去されてしまう」(≒関係性の失敗)に差異が見出されるように個人的には考えます<田中功起
2011-08-05 23:35:27@atashika_ymyh そうですね。あと、展示の場に対する意識も強いように思われます。横浜トリエンナーレの作品も観てもう一度考えてみたいですね。
2011-08-06 01:08:28