官邸前抗議は民主主義生成の場か、「金曜日の独裁」か
ある特定のテーマについてのある行動に集まった群衆の数というのは、当然ながらそのテーマについて、その行動の主催の代表性を正統づけるものではない。たとえば××大統領候補の集会に×万人集まったということとは性質が違う。
2012-08-02 04:05:53ところが、反原連は官邸前の20万という(神話的)数字を背景に、その声を「代表」する者として首相官邸に乗り込む。少なくとも政治的にはそうみなされるだろう。
2012-08-02 04:07:27もちろん、官邸前の(実際の数字では)数万人が、かれらの「代表」性を事実として承認したことは一度も無い。というか、官邸前は「代表」を選出せしめる場であったことは一度も無い。ひとびとは分断されており、合意形成のために官邸前に集うことすらできない。
2012-08-02 04:10:46つまり、反原連は官邸前デモの参加者および支持者によって「選出された」ことを、「代表」性の根拠にすることはできない、では、かれらを「代表」として正統づけるものは、いったい何なのだろうか。
2012-08-02 04:20:28官邸前運動の大きな特徴は、しばしば指摘されているように、その抗議形態が極めて統制され、フォルム化されているということである。警察と主催者と参加者が一体となり、あたかも典礼のようになっている。偶発性の契機はあらかじめ摘み取られている。
2012-08-02 04:34:41そのような官邸前行動のフォルムを「代表」しているのが反原連なのである。これは、カール・シュミットが「上からの代表」と呼んだものに等しい。言いかえれば、反原連はシュミット的なルソー解釈における「一般意志」を代表しているといってもいい。
2012-08-02 04:37:52ルソーは「一般意志」を「共通善(common good)」とほぼ同じ意味で用いている。ここでいう「共通善」は「共通の利害」のことではなく、差異の集合を通してあらわれるある「摂理」についてのことである。そのような「摂理」=「一般意志」は人格的に「代表」されうるのである。
2012-08-02 04:45:47「反原連」は、官邸前行動というフォルムにおいて、反原発派の「一般意志」を人格的に「代表」している。重要なのはフォルムにおいて「代表」するということなので、その選出方法は問われない。それは「拍手と喝采」でもかまわないのである。
2012-08-02 04:49:18官邸前行動は―少なくともその人数が数千を超え始めてからずっと、このようなヒエラルキーを形成する場となってきた。そして、議員との面談・首相との面談という事態になってついに、主催者=反原連が、ヴィルクリッヒなかたちで、再現前したのである。
2012-08-02 04:55:45あらゆるファシズムがそうであるように、官邸前行動も一見、民主的な色彩を伴ったものとして現れているようにみえる、しかしそこにあるのは、あらゆる民主主義的なプロセスを廃棄した、反原連による統治にほかならない。
2012-08-02 05:01:48官邸前の一般意志を「代表」する反原連は、言い換えれば、主権を「代表」してもいるのである。そうなると官邸前の人民は主権者でなければいけない。このため、官邸前行動は国民的な同質性を前提としたものとなる。主権を脅かす偶発性の契機たる異質性は排除される。
2012-08-02 05:07:05われわれが見ているのは市民運動の成熟ではなく、「危機」において主権的共同体が立ち上がる瞬間であって、それは民主主義の敗北であろう。野田首相との会談がどのように転ぶかはわからないが、いずれにせよこの運動が続く限り、良き展望が開けることはないだろう。(おわり)
2012-08-02 05:15:24