- L_O_Nihilum
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一言、凄い。本格的な研究という態度の在り方の手本にもなっているし、この研究論文じたいがナメクジと彼の物語として出来上がっている。ひとつの絵本を読んでいる気分だった。そしてなんといっても最後の文だ、ナメ.. http://t.co/8qtGY8IH
2012-08-13 01:50:34http://t.co/VyXNNIeG 論文という名の物語である。研究書としてではなく、この少年とナメクジたちとの物語として読んでみると非常に暖かい気持ちになれる。
2012-08-13 01:52:24研究論文や自由研究が物語、と口走って、やっぱり思い出すのが國分功一郎氏の著した『暇と退屈の倫理学』だろう。彼は言っている。生きることを薔薇で飾るように生きれば、そこから享受し、考える余地がうまれ、思考が始まり、生活への変化が起きる、と。
2012-08-13 01:58:18ソクラテスの「無知の自覚」がそうだし、アリストテレスは哲学に必要なものを「驚き」という才能と表現する。スピノザは「反省的認識」と言うがこれもようは同じことだ。プラトンのイデアへの感激とエロース、ハイデッガーの哲学も「感動」から始まるとしている。
2012-08-13 02:01:11学問の根本が哲学(知への愛=Philosophia)であるなら、いかなる学問も突き詰めれば哲学のような、どこか抽象的・壮大で、自己の起源や神秘に触れるような問いにつながる者なのだともいえるし、まさに研究というのは、そこへの至りを嗜みとする一つの遊び、技芸なのだと解る。
2012-08-13 02:02:44そう、論文、研究を描く、ということ自体が、もはやそうした意味では音楽と似たものなのだ。文学のようなものだ。そう考えてしまえば、自由研究とは童話であり物語なのだ。
2012-08-13 02:03:59「アナレクタ2」にて、佐々木中の言う事には、哲学者は講演、雄弁が好きなことが多いという。その理由は、雄弁に語るということが、レトリケーすなわち表現であり、要するにアート(技芸)だからなのだというのだ。哲学者の語り、雄弁とは音楽の演奏にほかならず、哲学書とは楽譜だと言っていい。
2012-08-13 02:05:35哲学がもはや論文というおカタいものではなく、そんな柔らかくて、読み物として楽しくて、技芸であるとするなら?自由研究、科学の研究、数学の研究が音楽のようであって、文学のようであって、詩のような技芸であって何が悪い。
2012-08-13 02:06:39つくづく、この少年の研究を読みながらそんなことを想わせられた。http://t.co/VyXNNIeG ナメクジとの喜遊曲がそこには奏でられている。そんな感じで、ぜひもう一度これを読んでみたいし、そういう気持ちで読んでみてほしい。
2012-08-13 02:07:43…この話をするとき、どうしても「論考」と「プラトー」もってきたくなるし、あとどうしてもバルトのエクリチュール論挟んで話をしたいとか思うんだけど、どうしても出来なくて困る。だってそうじゃん!彼らはまさに哲学を音楽のように作曲してはその音楽論を述べるような人たちじゃない!
2012-08-13 02:09:19論考なんて文字が形を持つことから世界を作るように音楽もその旋律が世界だみたいなこと6章後半でいうしさ、バルトなんか零度のエクリチュールとか要するに俳句みたいなところに目ェつけるしさ、ドゥル(+ガタ)に至っては「変奏」と。つまりアレンジ。二次創作、アドリブ。
2012-08-13 02:10:38ちょ、おま、ってくらいに論文イコール音楽だもん論文書きまくってるんですよ!なにこのロマンチックな人たち?!(メルロー「俺の言語の現象学はどこいった」)
2012-08-13 02:11:21それにさー論考とかさー、なにあの重低音の重さ?!この重さを感じるためだけに呼んでいい気がするよ?!意味わかんなくてええ気がするわよあれ?!ていうか哲学書て、案外着の身着のまま素っ裸で読んじゃったほうが得なんじゃないかとかそう思えるんだよね?!
2012-08-13 02:12:29ぶっちぇけますけど「 バ ッ ハ 聴 く か ら と い っ て バ ッ ハ の 知 識 な い と 音 も わ か ら な い わ け 、 ね ー じ ゃ ん 」と。
2012-08-13 02:13:14それと同じなんだよ、論証の技芸。て、そーんな風な話を挟みたかったんですが、うーん、やっぱし失敗でした。うー。ナメクジからの自然論。萌える。
2012-08-13 02:14:11