テレビ出演した石原氏を見た@KeigoTakeda竹田圭吾氏のつぶやき

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竹田圭吾 @KeigoTakeda

自分がテレビに出るときに常に意識していることの一つは、自分の発する言葉がカメラの向こうにいる「誰か」にどのように届き、どのように響くのかということ。番組でコメントするのはニュースを構成する当事者や要素の多元性、多様性を照らすことが役割と自分では考えているが(続

2012-09-14 04:33:09
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)ひとたび電波に乗った言葉は回収不能だし、文脈から遮断されて一部だけがネットで広がることもあるので、言葉を聞いた「誰か」がどう感じるかを強く意識せざるを得ない。それは不特定多数の人に一方的に意見を述べる特権を与えられた者が負うべき責任であり、そこから逃れることもできない。(続

2012-09-14 04:33:43
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)政治家が、出演中のテレビ番組で社会保障の話をしているときに唐突に「尊厳死」という言葉を持ち出したり、ある種の蔑称として用いられている「ナマポ」という単語で一部の生活保護受給者を形容したり、何の脈絡もなく福島の原発を「サティアン」と称したりするのは(続

2012-09-14 04:34:37
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)他者に向けて言葉を発しているという感覚が決定的に欠落していることを表している。そこには、本意が誤解されているとか、単なる例えだとか、問題を強調するためのレトリックであるとか、言い間違えであるといった(愚にもつかない言い訳のような)説明でも回避できない問題がある。(続

2012-09-14 04:34:57
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)単に、テレビカメラの向こうにいる「誰か」を石原伸晃氏が忘れているということではない。アレントやハーバーマスの言う公共圏や公共空間という概念、そこで共生する「異物」としての複数の他者自体が、野党第一党の総裁選挙に立候補した彼の中にはもとより存在していないのかもしれない。(続

2012-09-14 04:35:26
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)単に語彙が貧しいとか、言葉の選び方が間違っているということではない。言葉を紡いで問題を提起したり、理解を深める努力を怠っているとか、その能力が乏しいという問題でもない。それ以前として、その言葉を受け取る「誰か」そのものが対象として意識の中に存在していないのかもしれない。(続

2012-09-14 04:36:06
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)鉢呂経産大臣や松本龍復興大臣の発言をめぐる昨年の騒動は、新聞やテレビの政治報道が内包する偽善性がもたらしたたちの悪い言葉狩りだと今でも思うが、生放送の番組における発言には自分自身の責任しかない。今回の石原氏の場合、他の出演者に誘導されたわけでもない。(続

2012-09-14 04:37:03
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)以前あるラジオ局で石原氏と秘書と3人で出番前の待合室で過ごしたことがある。石原氏はスポーツ紙を広げて記事に突っ込みを入れながら秘書と雑談していたが、視聴者が意味を理解できるかという判断もなくネットのスラングが口から出るのは、そうした時と同じ感覚で喋っている印象がある。(続

2012-09-14 04:37:28
竹田圭吾 @KeigoTakeda

承前)政治家として資する他者とのつながりにおいてそうした言葉の回路や感覚しかもたない人が権力の中枢に限りなく接近しつつあり、それが十分にチェックされる機会が訪れるかどうかもわからない。テレビから流れてきた単語の不適切性よりそちらに慄然とすべきなのかもしれない。

2012-09-14 04:37:52