12/30 ソ連発足の日ツイート:バルト海の恐い噂 歴露さんが来た!
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@rekilat_bot 何がおかしいの?ロシアさん・ポーランドさん・スウェーデンさんで僕達の家を好き勝手に切り分けたりこき使ったり…。あ、タリンとタルトゥで方言レベルではありますが違う言葉を使うようになってしまったのも、この辺が原因なんですよ
2012-12-30 23:08:57ポーランドとの共和国体制になってからは、その自由すら失い、俺はラトビアやエストニアと同じように物言わぬ戦場となってしまった訳だけど、ロシアさん家もまた、かつてのキエフ・ルーシとは違う、上司の俺ルールが強烈な家になってました。…だからこそロシアさんは強い国になれたんでしょうけどね
2012-12-30 23:11:53@rekiest_bot そ、そうですよね。150年以上も僕達の家が戦場になりましたもんね。でも、ロシアさんの上司はこの間に面白い逸話を沢山残していますから、是非みんなにも知ってほしいなって思います…
2012-12-30 23:15:34@rekilat_bot そういえばラトビア。君、日頃ピョートル帝の奥さんをラトビア人だったって喋ってるけど、僕の家ではエストニア人だったとも言われているよ。彼女は僕の家出身だったじゃないか
2012-12-30 23:23:13。oO(二人共、仲いいなぁ…あと、エカチェリーナ1世はリトアニア人だったって説もあるんだよ…彼女の兄弟はみんな俺の家で暮らしていたからね…
2012-12-30 23:31:52@rekiest_bot 確かに現在のエストニアさん家で生まれ育った訳ですけど、彼女は元々ラトガレ語(方言)を使うカトリック教徒だったんで、ラトビア人で合ってると思います。何でもかんでも自分起源にしようとするのはエストニアさんの悪い癖だと思いますよ?
2012-12-30 23:33:10@rekilat_bot 何でもかんでもって…クリスマスツリーのこと?それともマルチパンのこと?奥様運び大会のこと?スカイプのこと?それだけじゃないかー
2012-12-30 23:33:12@rekiest_bot そんなにあれば十分ですよ…リトアニアさんの昔の俺は強かった脱線が終息したみたいなんで、話戻しましょう!僕らがロシアさん家に連れて行かれた1721年に!
2012-12-30 23:43:10そうだね、えーっと、ロシアさんがポーランドさん・スウェーデンさんとの三つ巴の争いを制し僕らを連れて行ってからの話をしましょう。僕らを長年支配していたドイツ人貴族達の力でロシアさんは急激に近代化しました
2012-12-30 23:43:56近代化したら今度は彼らの事が鬱陶しくなったんですよね。この辺りは先日の独立記念日にお話しした内容(http://t.co/BnMZ4WS)を読んでみていただければと思います。
2012-12-30 23:44:56ロシアさん家で経済的に裕福になっていったからこそ、自分自身について学ぶ機会を得られたって点については感謝してもいいでしょうね。ドイツ貴族が目慣れていたせいで、尊敬する気にはなれなかったんですけど
2012-12-30 23:46:36俺がポーランドと引き離されてロシアさんに恐ろしい目に遭わされて十字架の丘を作っていた頃、二人は楽しくお勉強タイムだったんだなぁ…
2012-12-30 23:47:25エストニアさんは尊敬する気になれないどころか、馬鹿にしてましたよね?…ぼ、僕は一応、尊敬もしてましたよ。ラトビア語を書く時のルールや単語の中にロシア語の影響があるのは、その名残です
2012-12-30 23:48:42おっと失礼。ちなみに1905年に独立機運が高まったところをボコボコにされたのは三人一緒だったんでしょうか?…当時のリトアニアさんの状況を全く知らないんですけど
2012-12-30 23:50:48@rekiest_bot 一緒だよ。二人みたいにロシアさんから優遇されて勉強する機会が貰えたり、なんてことは無かったけど、プロイセン経由で自分の事を学び直したりしたから独立する気満々だったんだよ
2012-12-30 23:52:47@rekiltu_bot 成程。WW1勃発後の独立運動も僕とラトビアは協力して戦いましたけど、リトアニアさんはあの時同様、たまたま近い場所で似た状況で同じような事をやっていただけだった訳ですね
2012-12-30 23:53:12@rekiest_bot そうそう。だけどアメリカに移住した仲間達は「リトアニアとその兄弟ラトビアに自由を!」って訴えてたんだよ。でもラトビアは何だかんだでロシアさんに懐いてたからなぁ
2012-12-31 00:00:35仲のいい兄弟ですね。もう少しラトビアが上手く立ちまわっていれば、ボリシェヴィキの脅威についても共有できていたんじゃないかと悔やまれますよ
2012-12-31 00:09:01…後になってから言うのは簡単なんですよ。帝政のロシアさんもボリシェヴィキもドイツ貴族じゃなくて僕に話しかけてくれたんですもん…言わせてもらえば、僕がどう動いたってリトアニアさんは聞く耳なんて持たなかったじゃないですか。僕がロシアさんが攻めてくるかもって相談しても…
2012-12-31 00:09:49そうだったね。俺が別の事で相談しても「穏便に頼みます」としか返事をくれなかったけど、仕方なかったんだよね。ごめん。お互い余裕がなさすぎたんだ
2012-12-31 00:11:39…それは最初の占領、独軍による占領の後の再占領以降の話ですかね。知識層を中心に強制移住が行なわれ、モスクワ当局から送られて来た党員達によって国が運営されました
2012-12-31 00:13:57僕もそうですね…僕の家にはソビエトの結成に貢献した人、独立時代も共産党としての活動を続けていた人もいましたけど…その人達をなかなか信じてくれなくて。怖いスターリンが亡くなった後、状況は一時的に良くなったんですけど…
2012-12-31 00:15:02俺の家では元々共産党員が少なかったから56年頃までソビエトの占領者とパルチザンをはじめとする独立運動家達の対立って構図だったな…独立の可能性が失われたって気付いてからは共産党と上手く折り合いを付けていこうって方向転換があったよ
2012-12-31 00:17:15独立時代に潜伏していた共産党員も1950年に粛清され、以降、政府は1980年代後半までエストニア人と対立する存在として存在し続けましたね
2012-12-31 00:18:40