- my_birthday0128
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鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
五斗米道の始まりは結構謎に包まれている。一般には張魯の祖父張陵がはじめたとされているが、張脩という人物が始祖という説もある。そのあたりをちょっと整理してみる。
2013-02-02 20:19:25
鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
『後漢書』霊帝紀には中平元年(184)巴郡の妖巫張脩が反乱し郡県をあらしたとある。この張脩であるが、『三国志』張魯伝注に引く『典略』には光和年間(178-184)に漢中で張脩が五斗米道を行ったとある。『典略』は五斗米道の始祖を張脩とするのである。
2013-02-02 20:20:52
鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
『後漢書』の記述と『典略』の記述を鑑みるに、光和中に漢中で始まった張脩の五斗米道は中平元年(184)に巴郡まで勢力を伸ばしたのだろう。
2013-02-02 20:22:05
鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
この頃起きていた馬相の乱(184-188)に際して、馬相は巴郡を荒らさせたとあり、もしかしたら張脩が馬相と連合しその役目を負ったのかもしれない。霊帝紀中平元年の記述はそのことを指している可能性もある。
2013-02-02 20:22:55
鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
では、張魯とは何者であったか。その伝には張陵が蜀の鶴鳴山で修行し、張衡・張魯がその後を継いだと書かれる。彼らのもともとの本拠地は蜀郡であったのだ。だからこそ張魯の母は蜀郡に州府を構える劉焉と行き来したのだろう。おそらく張魯は張脩と別に道教教団を指導していた。
2013-02-02 20:24:35
鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
つまりもともと益州には蜀郡を本拠とする張魯の教団と漢中から巴郡にかけてを勢力下に置く張脩の五斗米道という二つの道教の教団があったのだ。劉焉は張魯&張脩という二つの教団を官位により懐柔、そして蜀郡から張魯を漢中に送り、漢中にいる張脩と共同させて漢中太守蘇固を殺害させた。
2013-02-02 20:25:26
鎮虎大将軍雲子
@my_birthday0128
張魯はその後張脩を殺し、その教団を吸収した。『典略』は漢中入りした張魯が張脩のやり方をまねたとしている。張脩と張魯の関係はこのような感じであったのではないだろうか。
2013-02-02 20:26:11