アイラブ広瀬川フォーラム
昔の人たちは「広瀬川さションベンすっと、ちんぽ切られでガンバコ(棺桶)さ水入れられっぞ」と言われるぐらい川を尊んでいた。と、西大立目さん。
2013-02-23 15:51:04蛇行する広瀬川だからこそ形づくられる淵。その中でもハードルが高かった賢淵は泳ぎが達者な河童たちしか祈願できなかった。そんな河童たちは子どもに水の恐ろしさを教えてきた。危険な時期、深いところ。 仙台の燃料だった薪は、大倉ダム付近から蒔を流していた。
2013-02-23 15:51:51大倉流木は広瀬川を使って薪を仙台の街に供給した。岩に引っ掛かったら若者が泳いで外した。七つ石は流木の難所だったが、利用されなくなり、名前が忘れられているので、作並のゴリラ岩のように新たに名前をつけられないだろうか。
2013-02-23 15:55:01かつての仙台市公会堂。早稲田大学の武基雄が設計した。市民活動はとても盛んだった。 今の西公園にあった、かわいらしい仙台市天文台。螺旋階段がよかった。 これらは焼け野原からたちあがった戦災復興の象徴だった。
2013-02-23 15:59:27広瀬川の灯籠流しは、大飢饉で大勢の方が亡くなった供養だった。現実味がなかったが、東日本大震災で2万もの方が亡くなり遺体も行き場がなくなるような状況で、改めて実感できた。 仙台の母なる川ー広瀬川 暮らしの基盤 まちのイメージの根幹 遊びや楽しみの場所 杜の都である仙台の最後の砦
2013-02-23 16:07:58閖上と藤塚を行き来する渡し船があった。畑の野菜や人々を10分おき位の頻度で渡ることも。昭和47年に閖上大橋ができて渡し船はなくなった。川は町と街を隔てるようなもののようで、実は繋ぐもの。と、西大立目さん。
2013-02-23 16:21:31広瀬川フォーラム。市民の関わりが希薄になっているという話を象徴するように来場者の9割は髪が白いか頭頂部が見える方々。いかに広瀬川のファンを増やしていくか。
2013-02-23 16:23:10広瀬川フォーラムでの西大立目祥子さんのお話に出てた地名を仙台地図さんぽでなぞってみる。毎夏、子どもが亡くなるほど難易度高い川泳ぎポイントの賢淵(かしこぶち)。あー、あそこか!と知る。 http://t.co/g7plC9BJiP
2013-02-23 22:58:09