富嶽三十六景の版元=富士講講元説について

富嶽三十六景を出版した永寿堂西村屋与八が富士講講元だったという美術史での説を疑う。
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大谷正幸(録誌斎) @64sai

富嶽三十六景について、版元の永寿堂西村屋与八が富士講の講元であり、富士講人気を当て込んだものと言われる。ネットでもよく見るあたり、この説は美術史の分野では相当に浸透しているらしい。

2013-06-10 10:20:05
大谷正幸(録誌斎) @64sai

しかし、富嶽三十六景のそれぞれのモチーフは富士講と関係ない場所が多い。特に東海道側の各地は、江戸から富士山へ行くならまず甲州道中から行くのが近くて早いことから、富士講と本当に無縁といえる。その代わりに富士講が通りそうな甲州道中は犬目峠位。

2013-06-10 10:26:19
大谷正幸(録誌斎) @64sai

つまり、モチーフを考える限り富嶽三十六景と富士講との関係は皆無といってよい。諸人登山はどうなのか?登山者はみんなあんな恰好をしているに過ぎす、講紋が見えるわけでもなし、富士講徒とは限らない。むしろ講紋のある笠を誰も持っていないあたり、富士講を強調しているようには見えない。

2013-06-10 10:29:44
大谷正幸(録誌斎) @64sai

もっと問題なのは「永寿堂西村屋与八=富士講講元」説で、私はこの説の根拠を全く見たことがない。というより、誰もそれを示してくれていない。

2013-06-10 10:31:16
大谷正幸(録誌斎) @64sai

狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』(筑摩選書、2010)によれば、この説は北大路健氏という美術史家が唱えたものだが、狩野氏も根拠を提示していないあたり、北大路氏の説を孫引きしたにすぎないようだ。

2013-06-10 10:37:48
大谷正幸(録誌斎) @64sai

私が調べた限り、北大路氏のその説は『広重』(浮世絵八華8、平凡社、1984)にある。狩野氏も解説としてこの本に参加しているので、その関わりでこの説をご存知だったのだろう。それで、肝心なことは、この北大路氏による文中においても西村屋が講元であるという根拠は示されていない。

2013-06-10 11:45:06
大谷正幸(録誌斎) @64sai

1984年といえば、その前年に『富士講の歴史』が刊行されている。岩科氏のグループによる常民研の「富士講と富士塚」はこれに少し先立ち、当時富士講とか富士塚というのはちょっと目新しくて注目されたトピックだった。実際、富士講関係の論文も1985年あたりから爆発的に数が増えだす。

2013-06-10 11:48:59
大谷正幸(録誌斎) @64sai

北大路氏はそうした時流に乗っかって、根拠も無いのに、西村屋が富士講の講元だと言ってしまったのではないか。何でもかんでも富士信仰ならば富士講、と考える人は今でも多い。北大路氏も、浮世絵本来の事情と異なる、信仰という別次元の要素を持ち出したいがために、捏造したのではないか。

2013-06-10 11:56:13
大谷正幸(録誌斎) @64sai

もし、西村屋が富士講の講元だったという史料があれば、潔く撤回して今は亡き北大路氏に謝罪するので、お持ちの方はぜひ提示していただきたい。

2013-06-10 11:58:53
大谷正幸(録誌斎) @64sai

私は私で「そんなことはないだろう」と思っているので、今のところ西村屋富士講講元説は「美術史学界の都市伝説」だと思っている。

2013-06-10 12:01:13
大谷正幸(録誌斎) @64sai

なので、富嶽三十六景も富士講を意識したものでは決してない、とする意見に立つものである。

2013-06-10 12:03:21