#鳳翔の艦娘講座 ~正規空母 一航戦 赤城編~

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鳳翔 @Housyou_kankore

さてと、時間も良い感じですので。 これまたお久しぶり、 #鳳翔の艦娘講座 本編を行いたいと思います。 何時もの様に拙いお話ですが、酒の肴、寝物語、はたまたノエル代わりに聞いて頂ければ幸いです。 本日の艦娘ちゃんは、空母と云えばこの方。「一航戦の誇り」航空母艦・赤城さんです。

2013-12-24 23:23:58
鳳翔 @Housyou_kankore

なお、艦これの赤城さんは二代目さんにあたります。 ですので、何時もの様に初代さんから解説させて頂きたいと思います。

2013-12-24 23:24:59
鳳翔 @Housyou_kankore

初代の赤城さんは、明治初期に建造をされました摩耶型砲艦四人姉妹の末っ子に当たります。 摩耶型砲艦につきましては、以前の講座でも登場しましたのでここでは省かせて頂きたいと思います。 簡単におさらいをしますと、船体構造の素材が丁度過渡期の艦で、それぞれ材料が違うのが特徴です。

2013-12-24 23:27:47
鳳翔 @Housyou_kankore

この初代赤城さんは、姉の3隻とは違い鋼製の船体構造をしていたのが特徴です。 さて、初代赤城さんですが。 1886年7月20日に起工、1888年8月7日に進水、1890年8月20日に竣工をします。 竣工後は第一種に艦種指定をされます。

2013-12-24 23:30:34
鳳翔 @Housyou_kankore

1894年に日清戦争が開始をされますと、初代の赤城さんは黄海海戦、大連・旅順・威海衛攻略作戦等の各作戦等に参加。 特に黄海海戦では、当時の軍令部長が座乗していた輸送船を守る為に戦い、その結果集中砲火を受けて艦長さんが戦死、艦も大損害を受ける結果となっています。

2013-12-24 23:35:31
鳳翔 @Housyou_kankore

1898年に二等砲艦に類別。 1900年、北清事変に参加。 1904年、日露戦争に参加。日露戦争では旅順攻略作戦、樺太作戦等に参加をしています。 そのさなかの1904年5月、旅順沖で砲艦大島さんと衝突事故を起こしてしまい、大島さんは沈没してしまいました。

2013-12-24 23:38:01
鳳翔 @Housyou_kankore

その後、1911年に除籍後、1912年3月に川崎汽船に売却をされ、商船「赤城丸」となりました。 この時大改装を受けた為、砲艦時代の面影はほぼ無くなっていたそうです。但し、何故か船首に取り付けられていた衝角だけはそのまま残されたそうです。 1921年頃、尼崎汽船に転売をされます。

2013-12-24 23:39:59
鳳翔 @Housyou_kankore

その後どのような歴史を辿ったかの資料がないのですが、1945年台風で沈没。 その後浮揚をされたのですが、1946年1月に今度は備讃瀬戸で触雷によりまたも沈没をします。 再び浮揚をされて使用されていましたが、1953年に老朽化の為解体をされて、その生涯を終えました。

2013-12-24 23:42:48
鳳翔 @Housyou_kankore

明治の艦なのですが、太平洋戦争を乗り切って実に艦齢63年にもわたる長寿の艦だった訳ですね。 では初代赤城さんの諸元ですが。 全長51m、全幅8.2m、常備排水量622トン、石炭燃料の機関で最大速力は10ノット。 12cm単装砲4基、 4.7cm単装砲4基、

2013-12-24 23:44:45
鳳翔 @Housyou_kankore

30mm五連装砲2基、 を搭載して居ました。

2013-12-24 23:45:06
鳳翔 @Housyou_kankore

では続きまして、艦これ的に見た今の赤城さんの紹介です。 赤城さんは、八八艦隊計画の構成艦の巡洋戦艦として計画をされた天城型巡洋戦艦の2番艦です。 天城型巡洋戦艦につきましては、以前天城さんの講座を行った際に紹介していますので、ここでは省かせて頂きます。

2013-12-24 23:48:15
鳳翔 @Housyou_kankore

簡単におさらいをしますと、41cm連装砲5基10門搭載の高速巡洋戦艦として計画・建造をされますが、ワシントン海軍軍縮条約により八八艦隊計画が中止となり、姉の天城さんと同時に建造途中に於いて航空母艦に改装をされる事になりました。

2013-12-24 23:51:06
鳳翔 @Housyou_kankore

既に巡洋戦艦としてほぼ完成をしていた船体を無理矢理空母に改装したため、当初は色々と不具合が発生したそうですが、それでも1925年4月22日には、航空母艦・赤城として進水をしたそうです。

2013-12-24 23:53:05
鳳翔 @Housyou_kankore

さて、赤城さんですが。 1920年12月6日に起工、1925年4月22日に進水、1927年3月25日に竣工をします。 当初は、飛行甲板が三枚重ねられた様な構造の「三段式甲板」が装備をされていました。

2013-12-24 23:55:05
鳳翔 @Housyou_kankore

三段式甲板などにつきましては、今年の6月30日…ですから、およそ半年前ですね。その頃に二段式甲板・三段式甲板について講座を行っていますので、そちらも参考にしてみて下さい。 http://t.co/aCnfrVDovx 要するに同時発艦・着艦を狙った構造だった訳ですね。

2013-12-24 23:57:01
鳳翔 @Housyou_kankore

とは云いながらも、実際の赤城さんは二段目の甲板に20cm連装砲2基と艦橋があって、飛行甲板としては利用をされていませんでした。同様に再下段も利用されて居らず、結果的には最上段の甲板のみが利用されるという状態だったそうです。

2013-12-24 23:59:13
鳳翔 @Housyou_kankore

この頃の写真はまだ一般に出回っていたそうですので、三段式甲板の赤城さんの姿は、広く国民に親しまれていたそうです。 よく、TL等に上空から三段式甲板時代の赤城さんと長門さんが並んで写っている写真などが流れる事があるので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。

2013-12-25 00:00:52
鳳翔 @Housyou_kankore

この頃はまだ複葉機の時代。 赤城さんの艦載機量も、三式艦戦16機、一〇式艦上偵察機16機、一三式艦攻28機の合計60機という数でした。 また、煙突に一つの特徴がありまして、重油専用缶の煙突を海面に向けて、発着艦時は海水を噴霧して冷却の上排煙。

2013-12-25 00:06:11
鳳翔 @Housyou_kankore

重油・石炭混合缶の煙突は上方に向けるという独特の方式が採られていました。 この構造は過去から現在に至るまでに於いては、この赤城さんだけの特徴だったそうです。

2013-12-25 00:07:03
鳳翔 @Housyou_kankore

さて、そんな赤城さんでしたが、艦載機の進化・大型化に伴って飛行甲板の延長が必要となり、1938年に全通式の甲板にする近代化改装を行われます。 煙突はまとめられて右舷中央に配置をされ、艦橋は逆に左舷中央に設置をされます。左舷艦橋の空母は世界的に見ても、この赤城さんと飛龍のみです。

2013-12-25 00:09:34
鳳翔 @Housyou_kankore

さて、私が現役で初代一航戦を編成した頃、つまり日中戦争付近ですが、当時はまだ赤城さんは一部改装工事を請けていた為、出番がありませんでした。 1939年に加賀さんと交代で一航戦の旗艦となり、九七艦攻を搭載して南海島制圧作戦等に従事をしますが、この頃の赤城さんの出番はそこで終わります

2013-12-25 00:15:58
鳳翔 @Housyou_kankore

赤城さんの実質的な初陣は真珠湾攻撃になります。 この時は加賀さんと共に一航戦を編成し参加。 ご存じの通りの戦果を上げます。 帰国後、1942年1月にラバウル攻撃、2月中旬のポートダーウィン空襲、3月のチラチャップ攻撃、と南太平洋の序盤の主要作戦に次々と参加。

2013-12-25 00:20:38
鳳翔 @Housyou_kankore

セイロン沖海戦では英重巡ドーセットシャー、軽空母ハーミーズを他空母と共同撃沈して居ます。 但しこの時、ハーミーズ攻撃直前に赤城さんは英軍機に攻撃をされたのですが、攻撃された時まで上空に英軍機が居る事に気がつかなかったそうです。

2013-12-25 00:22:44
鳳翔 @Housyou_kankore

1942年4月までにおいて艦載機を撃ち減らされた為、搭載機数が54機まで減少。 その時点で横須賀に一旦帰国をします。 1942年6月、ミッドウエー海戦に参加。 当初ミッドウェー基地への攻撃隊が発艦をされ、魚雷を搭載した第二次攻撃隊が甲板に上げられます。

2013-12-25 00:28:52
鳳翔 @Housyou_kankore

この後、第一次攻撃隊から「第二次攻撃の必要性あり」の伝達を受け、魚雷から陸用爆弾への換装が行われます。 この頃、ミッドウェー基地から飛来した航空機の空襲を受けますが、赤城さんはこの時点では全て回避をしまして、直衛機を発進させてこれを撃退します。

2013-12-25 00:30:42