佐藤正美Tweet_20140401_15

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佐藤正美 @satou_masami

夜勤の明けがた、会社のベランダに出た。空が白んでいた。また一日、朝が明けた。考えよ、「一日を慎みて以てその世を終ふ」(呂子春秋)ということを。昨日の事は忘れて忘れ得よ。

2014-04-03 02:18:12
佐藤正美 @satou_masami

分析は事実認識力なのだが、事実をとらえるのは容易なことではない。モデルは、決して事態をそのままに記述するものではなく、「論理」で構成された事実を表現する。モデルは二つの面をもつ──すなわち、論理的構成物と事実的写像物である。それらのいずれも少しでも度を超すとモデルは崩れてしまう。

2014-04-04 00:02:39
佐藤正美 @satou_masami

事業では、「取引」を全体(経営過程)の中で把握するものだ。だから、我々が認識のうちに捉えるものは、或る(個々の)全貌ではない、他の事態との関係による「取引」だ。「取引」が次々に辿ってゆく過程というものは、みんな経営過程という一つの全体の中で採集される。

2014-04-04 00:03:07
佐藤正美 @satou_masami

事物の「本質」だって!? ──深遠な、どこまで行っても果てしないような論弁は、元来、システムには無縁な事と知り給え。

2014-04-04 00:03:31
佐藤正美 @satou_masami

言語には、記録・伝達の、すべての物の形式で、しかも物とは縁がないという矛盾した性質がある。たとえば、私が「受注」の記録を読んでも、実際に視た受注行為ではない。私が目にしているのは情報である。そして、験証すれば目で認識する事を私に予見させる情報である。言語とは、まさに予想である。

2014-04-04 00:03:57
佐藤正美 @satou_masami

言語は、記号として実際に与えられたもの、つまり事実だ。我々の手が為した事実だ。言語で表現された事の真偽は未定としても、言語に表しているという事実は動かせない。そこには、いつもなにがしかの主題に関する情報がある。だからこそ、私は物を認識する。しかも、それはすでに単純化された認識だ。

2014-04-04 00:04:21
佐藤正美 @satou_masami

単純化された情報の真偽を掴むためには、それの験証が必要になってくるのだが、「文『雪は白い』が真であるのは、雪が白いとき、そしてその時に限る」という当たり前の事は、SEたちにはなかなか難しい様だ。言語表現というものは、事実とは別のもので、形式と内容とを判別しなければならないものだ。

2014-04-04 00:04:46