佐賀戦国研究会による「もうひとつの”西の関ヶ原”」「関ヶ原西軍敗北後の流れ」

佐賀戦国研究会さんのアカウント@sagasengokuによってまとめられた、龍造寺鍋島視点からの関ヶ原の経緯をまとめさせていただきました。 平成26年12月27日、佐賀城本丸歴史館にて質疑応答会が開催されます。龍造寺鍋島への疑問や興味を持つ方は是非いらしてください!
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リンク twitter.com 佐賀の戦国史 (@sagasengoku) | Twitter The latest Tweets from 佐賀の戦国史 (@sagasengoku). 佐賀城本丸にて開催! 佐賀の戦国史 - 龍造寺鍋島伝 - 公式アカウントです。 第五回 質疑応答会(龍造寺氏・鍋島氏から日本の戦国時代)■講師:中西豪 (作家・歴史家)■日時:H26.12/27 ■会場:佐賀城本丸歴史館 ★料金:無料(資料なし) ぜひお越し下さい!. 肥前

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【大河連動】1600年7月伏見城攻め。龍造寺鍋島軍、毛利吉政(勝永)軍と合流し進撃。出陣者: 鍋島勝茂 龍造寺高房 龍造寺家久 龍造寺信昭 龍造寺茂成、千葉胤信、神代家良、馬場茂員、鍋島茂忠、成富茂安、山代茂貞(虎王丸) 鍋島種巻(城原衆)久納市右衛門 石井茂清 出雲茂可など。

2014-11-30 11:43:34
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【大河連動】②西軍 鍋島勝茂 総勢 4500騎(勝茂公譜による)/ /伏見城攻めの先陣:成富兵庫茂安 攻口の鉄門に火を掛け焼いた後突破。/ 伏見城の月見櫓は、鍋島勢が一番乗りを名乗った。/天守閣は小早川秀秋勢から火矢を放ち焼き崩れた/ 挙げた首級:100余、大老奉行衆より感状有

2014-11-30 12:21:53

もう一つの”西の関ヶ原”

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【もうひとつの"西の関ヶ原"】①世に詳細がほとんど知られていない激闘。慶長5年10月20日 江上八院の戦い。石垣原の戦いから約1カ月後。黒田如水は督戦のため八女市の水田へ布陣。加藤清正はみやま市の瀬高に布陣。添付図:立花軍先鋒隊の陣容 pic.twitter.com/aRIIv6BqC7

2014-12-04 00:14:51
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】②攻め:鍋島直茂・勝茂(龍造寺一門含む)西軍加担の責を赦す家康からの条件が立花征伐。/ 守り:立花宗茂。宗茂も家康に申し開きの使者を送り身上安堵の御朱印待ちの状態。/徳川方の督戦者:黒田如水・加藤清正。 pic.twitter.com/bKdzjbOHRc

2014-12-04 00:31:21
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】③ 本陣:鍋島直茂とその陣容図。通説では必ず五反田に本陣を構えたと記載されるが、五反田は(重要!!★鍋島軍の"先陣隊"の本陣)です。水豪多い平野部の狭い1区画へ1万名を詰め込む必要がどこにあるでしょうか。 pic.twitter.com/irsIONVxEC

2014-12-04 00:46:28
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】④『旧柳川藩志』S32.3/1刊『小野和泉並に立花右衛門大夫(中略)らに兵1千余人を付し5隊に編し以て肥軍に当らしむ。肥軍鍋島平五郎を始めとし12,000人を12隊に編し以て進む(中略)我等攻勢を取る。然るに肥軍の9隊迄きり崩すも衆寡敵せず退軍す。』

2014-12-04 01:11:01
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】⑤ ↓旧柳川藩志『9隊迄きり崩すも衆寡敵せず退軍す』→立花隊による鍋島9段崩しの典拠の1つ。『直茂公譜考補』記録には"先陣"が崩されかけて大混乱、ニ陣三陣の鉄砲射撃で巻返し。図をご高覧。これ9段崩せるか? pic.twitter.com/CEtV7LgZX0

2014-12-04 01:22:00
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】⑥立花隊が鍋島の先陣ニ陣を”崩せなかった”と思われる状況証拠。/ 図中:赤いバツ印:記録に登場する立花三太夫ら武将の戦死地とされる場所・墓碑。是らの史跡は中八院周辺1.5km四方の域を出ません。まず寡兵。 pic.twitter.com/kJe5Vq50Vc

2014-12-04 01:37:22
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】⑦江上八院合戦が<激闘>であった状況証拠:現地には、亡霊塚、経塚など当該の戦死者の供養碑が"現存"地域で手厚く祀られている。水濠に落ち死んだ武者多数と口伝、亡霊伝説あり。江戸時代八院村庄屋の記録(寛延記)中『昔は堀の底から武具類が少し出たと言います』

2014-12-04 01:59:20
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【もうひとつの"西の関ヶ原"】⑧江上八院合戦の<激闘>論拠『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.180 立花宗茂の書状中『鍋島陣所へ仕掛候、数刻あい戦い、互に勝負これなく候、しかりといえども敵大勢、味方は無人ゆえ、手負戦死歴々に』直茂公譜考補十『敵首六百余を塩漬け、家康公へ送付した

2014-12-04 02:13:58
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■江上八院の戦い■慶長5年(1600年)10月21日付、黒田如水→鍋島平五郎(主水茂里。直茂はこの合戦の司令を主水に任せていた)への書状『昨日お手柄の事聞き、我らは満足している。明日詳細を聞こう。お上(徳川家康)への注進状にも貴殿のお手柄、申し上げておこう。恐々謹言 円清(判』

2014-12-05 00:39:21
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■江上八院の戦い■慶長5年(1600年)『10月22日、黒田如水と加藤清正の両人は、鍋島直茂の陣へ来られ、今回の勝利の功を祝賀された。柳川の城へは加藤・黒田家の手勢を入れて守らせられ、立花宗茂家中の侍は両家の預かりとなる。』(直茂公譜考補十)

2014-12-05 00:45:32

関ヶ原西軍敗北後の流れ

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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)①■慶長5年(1600年)9/20頃、龍造寺・鍋島氏、大坂の玉造屋敷に閉じこもる。外は徳川方に包囲される気配。9/25.勝茂、伏見へ上り家康に詫び。家康「・・赦す。条件がある。柳川の立花宗茂を成敗せよ。」

2014-12-05 21:58:33
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)②■慶長5年(1600年)9/30頃、龍造寺高房は人質で大坂に残り、鍋島勝茂ら家中は大坂川口から船出。(この時佐賀の鍋島直茂は上方の状況が掴めていない為、徳川家康軍が九州征伐・鍋島征伐に来た場合の、死を賭して一かバチかの奇襲作戦を練った

2014-12-05 22:05:09
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)③■慶長5年(1600年)9/29:加藤清正→直茂へ書状「西軍は負けましたぞ。貴殿のお考えやいかに?協力できる事はするつもりです。立花宗茂も落ちて帰国の様子、その道中で宗茂の身柄を押さえれば手柄になりませぬか?」

2014-12-05 22:22:58
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)④■慶長5年(1600年)10月初旬、鍋島勝茂家中は肥前付近へ帰着、上方から帰ったままの7000騎で真っ直ぐ筑後へ侵攻しようとするが、直茂が制止「宗茂の父、立花道雪とは30年戦った仲。立花をナメるな。今回、必勝のため会議を開く。」

2014-12-05 22:29:28
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)④■慶長5年(1600年)10月11日、勝茂、佐賀城入城、三ノ丸高書院にて総集会議。この大事な会議に遅れて来た男がひとり。家老、鍋島(平五郎)主水茂里。直茂、激怒「もってのほか!」 →主水、シカト。「さて皆様、この度柳川の先鋒は私です」

2014-12-05 22:35:37
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)⑤■慶長5年(1600年)10月11日、佐賀城総会議。鍋島主水の突然の柳川攻め先鋒宣言で場が騒然。「言い争いはやめて頂こう。家を賭けた大戦だが、勝敗は時の運。もしも今回負けた場合、おのおの方!どう責任を取られるつもりか!」

2014-12-05 22:41:37
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)⑥■慶長5年(1600年)10月11日、佐賀城総会議。鍋島主水の発言で場が静まる。さっと胸元から紙の書付けを取りだし、直茂の前に捧げる。直茂はそれを手に取り読む。目を見張る。柳川攻めの作戦案であった。すでに主水により緻密に練られていた。

2014-12-05 22:46:29
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)⑦■慶長5年(1600年)10月11日、直茂「こたびの柳川一戦、総指揮は全て、主水に任せる」宣言。帰宅後、弟の鍋島七左衛門茂忠(深堀茂賢)を呼ぶ。「今度で、我らは死する。すまん。死ねるか。」茂忠「言うに及ばず、我れ一番に討死つかまつる」

2014-12-05 22:57:28
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ(勝茂公譜考補より)⑧■慶長5年(1600年)10月14日、戦闘員(1.2万~1.5万)作業員含めて3万余、12部隊に分けて佐賀城を出陣。筑後は龍造寺の旧領のため、事前に筑後の旧臣を蜂起させ瀬高へ放火。立花宗茂籠る柳川城へ、宣戦布告の使者を送り勝負を挑む。

2014-12-05 23:04:14