- kintoki_naruto
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今回の肝は和睦交渉なわけですが、京極忠高の陣が選ばれたのは、ドラマで描いていただいたように、中立的立場とみなしえる(実際に中立であったわけではない)という理由からです。
2016-11-28 00:15:25和睦の条文は、林羅山の記録に基づいたのですが、この時期、林羅山は別に幕府中枢に食い込んでいたわけではなく、実際には五ヶ条にない内容=堀の埋め立てと牢人の追放が含まれていました。本当は阿茶もきりも、女性なので平仮名書きになるところなのですが、そうするとわけがわからなくなるので。
2016-11-28 00:17:51実際の和睦条件は、福田千鶴『豊臣秀頼』182頁に掲載されています。出典は、土佐の「山内家文書」。それによると、秀頼の提案は、1)家康・秀忠に敵対しない、2)大坂の「惣堀」を埋める、3)牢人は召し抱えないというもの。実は、堀の埋め立てと牢人召し放ちを言い出したのは秀頼でした。
2016-11-28 00:20:12いっぽう、家康・秀忠の条件は、4)牢人はどこに居住しようがお構いなし、5)国替えを望むのであれば、秀吉時代と同じ石高を用意する、6)もし淀殿か秀頼が江戸に来るならば、丁重に遇する、というもの。あまあまです。
2016-11-28 00:22:30実際、淀殿は江戸下向を真剣に検討しており、「寒天」を理由に延期となっています。問題は、家康が駿府に帰った直後に起こりました。
2016-11-28 00:23:52なにかというと、秀頼提案の2)「惣堀」を埋める、の「惣堀」の定義です。豊臣方は、これを「惣構えの外堀」と認識していました。これを、徳川方が「すべての堀」と解釈し、二の丸・三の丸の堀の埋め立てを初めてしまったのです。家康は「家臣の聞き間違い」と流しています。
2016-11-28 00:26:22ただし、当時の史料をみると、当初から二の丸・三の丸の堀の埋め立ても条件に入っていたようで、こちらは豊臣方が担当するはずでした。秀頼サイドが、牢人を落ち着かせるために、「惣構えのみ」と喧伝した可能性が指摘されています。
2016-11-28 00:28:19ではなぜ徳川方が二の丸・三の丸の堀の埋め立てまでやってしまったかというと、早く帰りたかった、というのが本音のようです。堀を埋めるのに一番簡単な方法は、城壁を壊すというものですから、すぐに実施されました。そのぶん、掘り返しも早いのですが。
2016-11-28 00:30:11ただ、何しろ大きな城ですから、堀の埋め立てには1ヶ月を要しています。初陣で、寒空で野営している大名からすれば、とっとと済ませて帰りたかったでしょうが、突貫工事でもこれだけかかったということです。
2016-11-28 00:32:27こうした状況からすると、秀頼・淀殿ともに「和睦」を望んでいたように思われます。ただ、最大のネックとなったのが、秀頼から提案したはずの「牢人退去」でした。ようするに、大蔵卿局が懸念した通りの事態です。
2016-11-28 00:35:47この間の交渉はかなり入り組んでいるのですが、その過程で、讃岐・阿波国替え案が秀頼から提案されています。これは、摂津が戦場になり、年貢収入が望めないという切実な問題と、秀頼が牢人を統制できなくなり、召し抱えへと方針転換していく中ででてきます。
2016-11-28 00:37:04それに対し、家康は上総・安房という石高からみても、受け容れる余地のなさそうな回答を返しています。ただ、これは秀頼への嫌がらせというわけではなく、牢人問題の方針転換が理由であったようです。この問題は、この後も秀頼を苦しめることになります。
2016-11-28 00:39:45その際、大坂城内は主戦派・中間派・和睦派と分裂するのですが、信繁は中間派であったようです。ようするに「再戦は主張しないが、牢人問題は解決できないか」というわけで、これがおそらく秀頼から「懇ろにされている」が、周囲とは「よろず気遣いばかり」という立場を導き出したのでしょう。
2016-11-28 00:41:54さて、秀頼にせよ、信繁にせよ、望むと望まないとに関わりなく、和睦がひとまず成立しました。来週は、つかの間の和睦からスタートすることになります。
2016-11-28 00:46:09この後、常高院が言い出して阿茶にさらっと流されてしまった「牢人を召し抱えるための加増」問題がでてくるのですが(時系列で整理するのもややこしい)、それは次回ということで。
2016-11-28 00:49:36お通ですが、この後信之のペンフレンドになっています。松代転封時に出した書状で「この地は京都にも劣らない名勝が多い」と述べたあと、「ただ、知り合いの居ない場所に行くのは…」とこぼしています。
2016-11-28 00:55:54もっとも松代城(当時は松城城)は、もともとは武田信玄が築いた川中島防衛・統治拠点海津城のことで、信之の祖父幸綱が活躍した舞台ですから、はじめての転封で困惑したのでしょう。ただ、この転封は「栄転」です。それまで川中島を領していたのは徳川一門や筆頭家老酒井氏ですから。
2016-11-28 00:57:36真田関係は、昌幸・信繁のおかげで幕府に睨まれていたとする考えがなかなか抜けないのですが、信之個人は、秀忠から厚い信頼を得ていました。隠居申請が91歳まで通らなかったのも、幼少の4代将軍家綱のもとで、戦国の世を知っている「天下之飾」であるというのが幕閣の回答ですから。
2016-11-28 00:59:52あ、最大の難関だったのが膝枕代の請求書でした。膝枕代200文を強調しつつ、今後とも御贔屓にという文面で・・・ってそんな古文書あるかい!と思いつつ、意地で作りました。膝枕代だけというのも、ちょっとおかしいのでベース領金いれています。
2016-11-28 01:14:28御勘定之覚 一、十二月分御咄代 五〇〇文 一、膝枕代 二〇〇文 合七〇〇文者 右、当月御勘定として書上候者 也、今後とも御ひいきに御願申 上たく、かしく 十二月十五日 於通 真田伊豆守さまへ
2016-11-28 01:14:45あ、数字は二〇〇ではなく、二百とかにしたはずですね。記憶に間違いが無ければ。うっかりタイポしたかもしれないけど(これが怖いので、あんまり映したくない)。
2016-11-28 01:22:32