やっぱり、ちーちゃんだなあ。音楽のよさもあるんだけど、ちーちゃんだったなあ。あるいは、以前わたしは高校演劇全国大会の審査員をやったのだが、そのときに似た感覚があったわけですね、このきわめてポジティブな生に対するメッセージ、そして表現方法の素直さのようなもの、これは柴君の(つづく)
2011-04-19 22:07:38資質なんだろうと思うし、僕なんかにはないし、まして岩松さんや、三浦大輔君にはけっして存在しないものだが、それがすーっと入ってくるのは、あのとき高校生たちを見たのと同じような感触だ。それが不思議だった。それがおそらく柴君なのだろう。で、ちーちゃんだと、わたしはだんこ言いたい。
2011-04-19 22:10:22ある人がその舞台を強く否定していたのを少し前に聞いていたけれど、それを書くことを躊躇せざるをえないのは、たしかにある種類の人にとって受け入れがたいものも感じつつも、でもね、僕は否定しないからです。高校演劇のことを引き合いに出しましたが、高校生の作るある種類の演劇のよさ(つづく)
2011-04-20 06:04:42は、そのとき突然、出現したある種の奇跡としか言いようのない、特別性、個別性を持っており、いま、そのとき、彼らの年齢が生み出した偶然だと思った。そのことに僕は感銘を受け、演劇のまたべつの魅力を感じた。もちろん、「わが星」は、口口口の三浦君の音楽をはじめ、(つづく)
2011-04-20 06:08:01きわめてクオリティの高い作品だが、この瞬間、演劇の「上演」は、「戯曲」とは異なり、不意に生まれ、そして不意に消えてしまうものだが、その一瞬、この時代との共時性のなかでまたべつの成果を生む。あの表現に異和を感じれば、最初の五分でもう否定的になるでしょう。もしかしたら(つづく)
2011-04-20 06:11:55僕も、いやなものを感じたかもしれない。ブレイクビートの音楽と、俳優の演劇的な身体は相容れないものがどこかあるとか、曖昧な趣味傾向で語ってしまいそうでありながら、しかし、すーっと私のなかに入って来たのは、演出する柴君の資質と、だからこそ生まれる表現を肯定できたからだ。
2011-04-20 06:15:08なぜ肯定できたか。さまざまな要素がそれを決定づけていると思う。ちーちゃんとかね。だから、戯曲を先に読んで評価したことは正しかった。そこでしようとしている「試み」をテキストのレベルで読めたからだ。そうでなければ、テキストの読みはくもった。
2011-04-20 06:20:41もちろん、セカイ系という言葉で評価することもできてしまうある傾向がテキストに含まれている。また音楽劇と言ってもいい側面と、その表現の屈託のなさは(俳優の演技も含め)、ちょっとまちがえれば「人をいやな気分にさせる」かもしれない。だからこそ奇跡だと思う。
2011-04-20 06:24:27なにしろ、「わたしがここにあることの生のあり方の肯定」の屈託のなさが舞台を支配するからだ。しかもこの方法で。まるで「ままごと」のような無邪気さでそれを表現できることを照明してみせる。もちろんその背後に、きわめてすぐれたスタッフワークをはじめ、技術と表現する力が隠れているのだが。
2011-04-20 06:28:58まだ書きたいことはあるけれどここまでにしよう。なぜこんなに書いてしまったかと言えば、否定する人の気持ちがよくわかるからです。「否定」もわかりつつ、なおかつ肯定したいと思ったからだ。いま、肯定したい。いまだからこそ、肯定したい。そう思わせてくれたことが僕にとってはいちばんの意味だ。
2011-04-20 06:32:02あと、それはまた作品論とはべつの話になるが、演出がていねいだった。いま、若い演出家たちの多くはきめこまかい演出をする。まったくのド素人というのは問題外にしても、この細かさ、巧さは、いいことなのかどうか。乱暴さのなかに美しさもあるし、演劇的な乱暴さの魅力もある。世代なのか。
2011-04-20 07:22:39