上田ゼミ読書会<関心なき快>にむけて
観察者自身が冷静な判断を下すことによりすぎた為に、観察者自身も経験したであろう強烈な芸術の美的体験が抜け落ちて認識されていることの強調である。それでは美について一切を語ったことにならないという、根本的な認識の欠落をニーチェは指摘する。…続けて…無関心についても批判を向けている。」
2011-05-02 22:23:01「美とは関心なしに人の気にいるもの」とカントは言った。関心なし!この定義を、本当の「見る人」でもあり芸術家でもあったあるひとのくだしたあの別の定義と比較するがよい… カントが美的状態について強調した唯一の点、「無関心性」が拒否され抹殺されている。
2011-05-02 22:25:56美学者たちはカントの方をもって、美の魔力のもとでは女のはだかの彫刻をすら「関心なしに」見ることができるという説を倦むこともなく説いているが、おかげでわれわれはちょっと笑うことができるというものである。一芸術家たちの経験は、この微妙な点については、「もっと関心を持った」ものである。
2011-05-02 22:30:143. 余談:カント美学は、『判断力批判』でも説かれるように<美>と<崇高>というふたつの項目から成り立っている。(ここは先達にお伺いをしたい点であるが)後にグリーンバーグ=モダニズム美学、特に芸術の自律性がカントに依拠して語られることになるのも「構造的である理論」の故だと考える。
2011-05-02 22:34:404. 余談:<美>についての議論の相手の筆頭は正しくニーチェから始まり、アドルノ、ベンヤミン、デリダ、ドゥルーズ等が考え得る。片方、<崇高>について対峙し得る者の代表者として私はここでバタイユを挙げる。彼の主たる論は『エロティシズム』に代表されるように恍惚的崇高についてである。
2011-05-02 22:38:525. 課題:ここにおいてバタイユ美学をあげるのは、まさしくその「不定形」という鍵語においてである。(参考文献 江澤憲一郎『ジョルジョ・バタイユの《不定形》の美学』、イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム』etc.)不定形と非構造性がイコールで結べるかが命題。
2011-05-02 22:43:226. 命題が解けたと過程すると、検討中の論文におけるカントに対するニーチェの姿、則ち「ひたすら個人的な欲望の為に芸術を用いて」「カントのように美の普遍性など認め」ず、その瞬間瞬間に立ち現れてくるが故に俯瞰的先験的な理論では捉えられないものを「美」と名付けるものに近づくことになる。
2011-05-02 22:51:417. 仮定(過程)的結論:よって、ここで持論を持ち出すのであれば「カントは関心を取り外すことで、芸術作品と現実の出来事の関係の間で生じる「悲劇の快」を軽々と越えて説明を可能に」(p.11)はしておらず、その議論はカントがその美学で<美>から分割した<崇高>に向けられ得ると考える。
2011-05-02 22:56:508. ここで敢えてカントに立ち戻ろうとするのは、なにもモダニズム的自律性に依拠したいが故のみではない。特に顕著にみられる美学的議論の行き詰まりの多くがアドルノ的政治性やベンヤミンの空気(=アウラ)・叙情詩的論説に依拠する挫折にあり、加えて「中世」への揺り戻しが見られるからである。
2011-05-02 23:03:199. 中世を呼び戻したとしても、既にその中核を失っている近現代におけいては、それは形骸化した「論理」になるであろうし、形骸化した議論は更なる捻挫を招くだけとなる。英米で盛んな分析美学を昨今の若い日本の研究者が積極的に輸入しようとしているのも、同じ背景をもってのことであると考える。
2011-05-02 23:07:54人間的なものの一切をそぎ落とした上で、圧倒されることによって見出される崇高の美… 崇高の持つ力は、芸術が歩んだ近代の文脈においては、ある時期まで決定的な役割を果たすことになる。あらゆる関心も認識も、圧倒して、否定してしまうものとして経験される崇高の美学は…普遍性に至るものだった。
2011-05-02 23:14:50「どんなに追いやろうとしてみても、趣味判断の普遍性や道徳的欲求も意識することない美の力はピュグマリオンのように欲望を隠さない。そして、絶えざる欲望は欲望ゆえに現実に参与することを諦めない。」>欲望の理論において、私の欲望は他者の欲望である。ここではオートポイエーシスが鬼門となる。
2011-05-02 23:28:52「近代の芸術観が、その過程で築き上げてしまった芸術作品=フィクションという括弧付きの身分は自律性の確保において確かに必要な過程だったのかもしれない。」>これは歴史的(弁証法的)に述べるのであれば、寧ろ順序は逆であるのではないか。つまり、自律性は芸術作品を論じるために求められた。
2011-05-02 23:30:24「全てが括弧付の条件下で許される代わりに、現実に参与されることを認められない芸術作品の身分である」>この論は乱暴では?例えば社会学を援用し、現実=社会に置き換えれば、芸術作品であれゴミであれ全てが誕生と同時に参与させられる対象となる。寧ろニヒリズムとはこれに対するものではないか。
2011-05-02 23:36:49「貨幣の交換による消費でもなく、私たちが関わることが出来ない崇高とも違う、美のありかたの可能性をニーチェは与えている」>「崇高」は既述の通り議論の余地あり。更に、もしも「実践的な参与」を指向するならばここでより深重な議論をなされるべきは<終わりなき消費>の現代性ではないだろうか。
2011-05-02 23:39:41しかし河北新報社のグラフ誌でさえダメなのは、それが死者の写真を掲載することを躊躇しているからだ。写真なるメディアがあってそれを抑制するのはある意味、偽善である。われわれはカント/ニーチェ的な(と書いてしまっておくが)「悲劇の快」をめぐる問いの、はるか手前に立ち止まっている。
2011-05-05 15:51:38「廃墟の美」なんていう言葉を初めて聞きました、なんていう顔をしないでおこうね、みんな。しかもそれをもたらすのが永遠にも近似する時間によるばかりではない、ということも、カントの崇高論のひそみにならって思い起こしておこう。
2011-05-05 16:02:05@KANAH0 借りてきたのであさってまでに読んでおきます。ちなみにそれって僕が混乱しているということ(だとしたらどのあたりのコメント)ですか?
2011-05-06 17:52:48@die_Stimme いや そうではなくて、目を通すかぎり、内海論文の筆頭参照文献がアガンベンのだから、どこまでが via アガンベンで、どこからが内海論文の主張なのかが割とわかりやすくなると思うよ、程度の意です。かわしまくんとジンが議論しているポイントはそのまま続くと楽しい!
2011-05-06 17:59:19@KANAH0 なるほど。どうもどうも。まだ第一章だけど確かに論文中の via アガンベンなところはだいぶ分かりやすくなりました。全然割り込んでもらっていいですよ!僕がいいですよ!とか言うのもなんか変な感じですが。自分なりに整理しながら分からないところを質問してるだけですから…。
2011-05-06 18:14:54@die_Stimme 私もアガンベンを最初に読んでなかったら混乱しただろうな、と思ったから、やはり下地として共有できるものがあると議論の的も絞りやすいし、ベターだね。私も、内海論文についての直接の疑問点とそれから二人のセッションに割り込むかたちで再度参入します @jinsnow
2011-05-06 18:29:13