劇団どくんご東京公演4日目を観た日比野啓氏のつぶやきから始まる劇評のやりとり
そしてもっというと、それは手垢にまみれたイメージを個人のものとして扱うか、集団のものとして扱うかということだと思います。たとえば太陽劇団が集団的想像力というとき、それは手垢にまみれたイメージを集団のものとして扱うということを意味します。イメージを生み出す母体は匿名の民衆なのです。
2011-06-21 18:29:02その集団的想像力が生み出す物語とは「陳腐」なものにすぎません。しかし陳腐であることを引き受けて提示することで、それは無限の輝きを持ち得ます。ところが80年代エチュードでは、俳優の「個性」をなんとか刻もうとします。陳腐でしかないのに、唯一無二のものとして提示します。
2011-06-21 18:31:56「長い批評はないのか」と書いたらある人に柳澤望さんというかたのwonderlandの評があると教えてもらいました。コメディア・デラルテという演劇的アイコンを出してきたところで、この人はコメディア・デラルテを愛しているわけではないのだと直感しました。
2011-06-21 18:35:13少なくとも、この人はコンメディア・デラルテの「脚本」を読んだことはないだろうと思います。そのつまらなさ、陳腐さ、凡庸さがあってこそ、デラルテ役者の身体芸は光るのです。
2011-06-21 18:40:51その意味ではストレーレルだってゴッツィだってやってることは無理筋です。但し才能のある人間のものだからなんとか見られる。80年代エチュードはあるいはどくんごはと言ってもいいかもしれませんが(行きがかり上名前を出してしまいましたが)陳腐さを隠して個性を見せるという点で無理筋なのです。
2011-06-21 18:43:33私は曽我廼家五郎の研究者です。五郎のつまらない脚本は死ぬほど読みました。ミンストレル・ショーの下らない脚本も、秋田実漫才全集も、コンメディア・デラルテの筋書集にも一通り目を通しています。いずれも陳腐な物語は一つのきっかけに過ぎず、観客の想像力を広げていくのはそれぞれの身体です。
2011-06-21 18:51:27しかし80年代エチュード主義は、まず物語の「面白さ」で観客を釣ろうとする。それ面白くないって。どこかで聞いたことのある話だって。その矛盾を「メタシアター」という仕掛けでごまかすこともよくありましたが、その仕掛けそのものが「自分たちの語る話はよくある話ではないか」という不安を
2011-06-21 18:55:2780年代エチュード主義は「みんなちがって、みんないい」の幻想のもとに時代や社会に限定されたものでしかない個々人の想像力をさも貴重なものであるかのように提示する、小賢しいものでした。
2011-06-21 19:04:06二十年以上旅をしてきて、見てきた風景はまるきり違っているだろう、その想像力もさぞ異形のものだろうとどくんごに期待した私は、80年代と変わらない、近未来SF/ちょっとした思いつき/気取ったスノビズム、を見て仰天したのです。それは私たちの卑近な想像力にあまりにも近しいものではないか。
2011-06-21 19:09:18あえて佐伯隆幸ふうにいえば高度資本主義社会に生きて資本の論理に飼い慣らされている私たちの陳腐な想像力とまるで変わらないではないか。フォークナーがヨクナパトーファを、大江が四国の森を、中上が紀州の路地を幻視して私たちに示したような、異境の地を見せてくれるのではないのか。
2011-06-21 19:13:11もちろん唐が虚構の満州を、寺山が虚構の東北を示したようにといってもよい。そうでなければ、太陽劇団のように、コンプリシテのように、陳腐なfolk taleを陳腐なものとして語るか。
2011-06-21 19:16:33