西園寺公から始まる戦前昭和の政界のお話。

仮まとめ。最初がこれでいいのか自信がない…
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マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 初期は懐柔だったけど、平沼が首相後継最有力になってくると露骨にならざるをえないって事情があるさね。結局のところ、この平沼も枢密院議長を経て首相になっちゃうんだけどね。

2011-09-19 20:50:50
ぼろ太@C104 月曜日 ホ37ab @futaba_AFB

@Hisana_ 今更なことかもですが、枢密院というのはどういうポジションにあった組織なのでしょうか、この頃には既に二院制でしたよね?さらに枢密院という組織があるのは凄く権力が分散してしまいそうな気がします。

2011-09-19 21:05:52
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 枢密院は天皇の最高諮問機関。条約や重要な国務について天皇の諮問を受け、奉答する機関。実際には自由民権運動の高まりの下、藩閥勢力がそれに対抗するためにつくった機関と言っても過言ではない。のちに枢密院は山縣系長州閥の牙城となっていく。

2011-09-19 21:11:58
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 山縣は1922年に死ぬまで枢密院議長として在任し続け、後任には山縣系官僚の清浦が就く。ところが清浦が首相就任で枢密院議長から退任すると、後任は濱尾新となり、小物の感が否めない。この辺り山縣の存命中、枢密院の、いや、元老の権力を奪っていった原敬の影響が大きい

2011-09-19 21:17:14
ぼろ太@C104 月曜日 ホ37ab @futaba_AFB

@Hisana_ だから国粋右翼系の牙城となっていくわけですね、鶏卵な話かもしれませんが、藩閥政治の意地のために少しずつ国粋右翼へと思想を先鋭化していったという解釈でいいのでしょうか?

2011-09-19 21:17:16
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 枢密院はその後政党内閣全盛にあたり、政党への抵抗勢力として存在し続ける。若槻内閣の緊急勅令否決なんかが最たる例ね。しかし、浜口内閣のロンドン海軍軍縮条約締結問題の際に、ついに政党勢力に屈服することになるというわけね。

2011-09-19 21:18:39
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 国粋右翼というのは平沼個人の問題であって、本質的には枢密院の問題ではない。ところが、検事総長を務め、司法界に絶大な影響力を持ち、国本社の創設者として国粋右翼のドン的な存在である平沼が当時の議長であった倉富や書記官長の二上に影響を与えたわけね

2011-09-19 21:21:25
ぼろ太@C104 月曜日 ホ37ab @futaba_AFB

@Hisana_ 国本社というのは政治結社でしょうか?

2011-09-19 22:20:56
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB んむ。国粋右翼の政治結社だなー

2011-09-19 22:23:23
ぼろ太@C104 月曜日 ホ37ab @futaba_AFB

@Hisana_ 調べ見たら真崎甚三郎もメンバーなのですね

2011-09-19 22:37:32
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 平沼はそういうののボスだったわけだ

2011-09-19 22:41:32
ぼろ太@C104 月曜日 ホ37ab @futaba_AFB

@Hisana_ 晩年の東郷平八郎までいますし、これだけアレな方向で有名な人が集まったなと...これは確かに任せられないですね

2011-09-19 22:47:50
マルベリー公 @D_o_Mulberry

@futaba_AFB 西園寺は人を見抜く目はあるわさ。でないとあの時代に唯一の元老として命を長らえることはできなかっただろうし

2011-09-19 22:52:52