- nightmere666
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@tatebayashifan 今日、館林についての話をぼちぼちしとるで、あとでよかったら見てくれ。たぐは #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:23:56で、なんでも館林焼きそばなるものがあるそうな。特徴は太麺と具にじゃが芋が入っとるところだとか。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:29:23わしまだ食したことがないで、ちと原田か南にでも求めに行かせるか。三河におると、館林うどんもそうそう手に入らんでな。しかし大根蕎麦は無理かもしれん。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:33:28さて…もう時間も少なくなってきたか。館林城下にある各寺院は、いくつかはわしが城下整備の時に移させたものだ。そのうち遍照寺には、わしもよくお参りに行った十一面観音がある。元々は別に観音堂があったのだがな。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:47:51この遍照寺住職宥円と、館林城下のとある寺の住職は当時対立しておって、ある時わしの元で両者が論法をかわすこととなった。結果は相手の寺の住職のほうに理がある…ということになったのだが、そのあとがいけなかった。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:51:05これに喜んだ住職の従者は、下城のため大手門をくぐった宥円を捕らえ、法衣を剥ぎ取ったという。宥円はこれらの屈辱と怒りのため武蔵国柳生養生寺にて自決。この遺体が荼毘にふされると、にわかに空が曇りだし、灰は全て天に舞い上がっていった。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:53:12相手の寺の裏山も鳴動し、江戸屋敷にも怪現象が起こった。遍照寺には「宥円のネジリ石」という墓石がある。宥円の怨霊が某寺の住職を恨み、その力で石が捻り曲がったと伝わる。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:54:30なかなか面白い話だが、怪現象が起こった記憶はないな。…ま、寺とのつきあいもなかなか難しいものだ。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 22:56:42富士嶽神社にも、わしに関する話が残っとる。館林城大手門付近の連雀町で市が開かれていた。その賑わいの中、六尺を超える巨躯の山伏が大手門付近にやって来た。山伏は大きな石に上がり、大声で次のようなことを語った。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:02:13「当城主式部大輔殿は御謀叛の罪にて切腹。臣下の者も謀叛の郎党と見なされ、井伊掃部頭、永野信濃守が討伐の大将に任ぜられた。大軍は川俣通りから攻め、搦手の大将となった奥平美濃守は早川田通りから攻め込んでくる。両軍とも利根川、渡良瀬川を既に越えた」と。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:03:04市に来ていた者は驚愕し、城下は大混乱。城内でも緊急の軍議が開かれ、要所に兵士を配置するなど応戦の準備が進められた。夕刻になって江戸からの使者が着き、謀叛など全くの偽りであると伝えた。…いや即日で使者はこんだろうというつっこみは置く。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:04:27全て山伏の虚言であったと判り、城下はようやく落ち着きを取り戻していった。家臣が山伏を罵ると、わしは当家の大事を予知した神の使いであろうと言ったという。翌年、館林小桑原に富士嶽神社を創建し、榊原家の安泰を祈ることなった。…という話だな。これもなかなか面白い。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:05:43何が面白いというと、具体的すぎる。井伊掃部殿の名があがっているあたり、わかってないとも言うが。まぁこれも後の創作ではあるが、富士嶽神社が榊原家ゆかりの神社であることにかわりはない。5月にはぺったん祭りもあるしな。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:10:56榊原家は江戸期には各地に転封されておるで、菩提寺もそれについて転々と各地に移動しとる。先日のわしの子孫の話では、明治の世になった時につきあいのある寺は、全国に36あったそうな。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:18:26さて…すぺしゃるはこれぐらいにしておくか。まだ話すことはあると思うんだが、それはまたいずれ。一部の方はTLを埋めまくったかもしれないが許してくれ。 #館林すぺしゃる
2011-12-04 23:28:24RT @sakaki_koheita: 本日はついったー参戦半年企画の最後、「館林すぺしゃる」だ。館林とその近郊の情報を募集する故、何ぞわしに紹介してほしいことがあれば、連絡をくれ。といっても、わしのふぉろわに館林の者は少なそうだが。 #館林すぺしゃる
2011-12-05 00:45:29