ぼくは「被爆者に差別されるアメリカ人の子供」だった
- as_kakuichiro
- 20972
- 7
- 3
- 10
昨夜のMXTV「ニッポン・ダンディ」で水道橋博士とご一緒しましたが、ウッディ・アレンのキャリアまるごとを振り返るドキュメンタリーがトピックでした。同監督がずっと現役で映画を作り続けていたことを知ったのも初耳。
2012-11-11 01:18:03過去の名作の中で「スリーパーズ」と「アニー・ホール」ぐらいしか見覚えがなかったのに、シリアス路線をはじめ、考えられるあらゆる方向に監督の活動が炸裂し続けてきたことに今さら気がついた次第です。リリースされたばかりの『恋と映画とウディ・アレン』 には、これでもかと詳細が。
2012-11-11 01:19:32ウッディ・アレンが当初コメディーが大嫌いで、舞台に上がるのが嫌すぎてよく吐いていたなどという信じがたいお話も。その最初の山を乗り越えたあたりから吹っ切れて、次々と才能の引き出しを開花させ、無限ループが起きたのだな、という過程がわかります。
2012-11-11 01:20:48ウッディ・アレンが制作過程や私生活などを人前に出すことを極端にいやがり、スタンディング・オベーションを受けている最中も「こんなのまやかしだから」と語る冷静さは素晴らしいと思います。SNSの時代になり、プライバシーも何もかもネタにする、ある意味卑屈なPRが定着している今だからこそ。
2012-11-11 01:22:39ある時点でウッディ・アレンが自分自身、そして周囲を徹底的に客観視できるようになり、以後なにものにも動じなくなっていったという過程が窺い知れるドキュメンタリーになっています。何重にもうらやましい境地です。そこまで行けば、人間は自分の奥底にあるほとんどのエネルギーを抽出可能かも。
2012-11-11 01:24:31ただ、ウッディ・アレンは自身の深層心理にあるパンドラの箱を開けてしまったようなところもあったかもしれません。ミア・ファローと事実婚をしている最中に、妻であるミアの養子と恋仲に落ち、そのまま結婚をするという「暴挙」にも出て、ある時期女性ファンの総スカンをくらったこともありました。
2012-11-11 01:25:45それでも風評を無視するかのように一貫して恋路を貫き、今は老後という言葉が当てはまらない活発さでヒット作を輩出。映画製作のロケ地を転々と変え、家族が合流してほのぼのする一面も。ここまで才能を磨きながら、同時に開き直れたら、あらゆる「呪縛」から解き放たれてしまうのかも。
2012-11-11 01:27:06何も気にしないでひたすら創り続けることができたら、ぼく自身すごく嬉しい立場にあります。たとえば自分の身の上。日本語が超絶的にうまいアメリカ人なので、さまざまなニッチを満たしてしまい、これまで仕事のオファーはだいたいその路線か、延長線上でやって来ました。
2012-11-11 01:29:06ぼくが自分で見ている自分と外から見た自分が異なるということですね。とても乱暴に短縮して説明すると、ぼくは見かけがアメリカ人。でも中身が日本人60%アメリカ人40%。しかし場合によってはアメリカ人60%日本人40%になることもある。ただ、その揺れ動きを理解できる人は非常に少ない。
2012-11-11 01:30:04外見に加えてさらにのしかかるのが、自分の過去です。まず、5歳から13歳まで広島のABCCに父が研究医として勤めていた関係で、3.11以降は人によっては「ABCCの関係者および影響下にある者」という色がついてしまっています。
2012-11-11 01:31:4413歳以下の子供がABCCの近くにいたことが人格を決定するのか?という素朴な疑問は置いておきます。人によってはこのことが現在のぼくの言動を支配しているかのように考えてしまうようで、それはぼくの側からすると「?」というもの。でも、案外根深いこともあるんです。
2012-11-11 01:32:49仮にこの「ABCCの息子」というレッテルを条件付きで受け入れたとしても、その先には実はさらに複雑な物語があります。たとえば、広島のインターナショナル・スクールに通っていた時期、5年生の新学期が(アメリカのカレンダーで)始まった9月に、日本語が校内で禁止されてしまったのです。
2012-11-11 01:34:40これは、児童の数があわせて数十人しかいなかった当時のインターナショナル・スクールでハーフの子供が占める比率が高く、授業中や授業の合間に広島弁の私語を交わしていたことに、教える側が危機感を抱いた結果でした。教員以外のスタッフは広島の日本人が勤めていたので、その人たちとも当然広島弁。
2012-11-11 01:36:01一律「日本語禁止」という理不尽に我慢がならなかったぼくは、父母を説得してすかさず広島郊外の公立小学校に転向しました。夏の間、お客さんとして仮に入学したこともあり、日本人の友達がたくさんいる中に移ろう!という心意気でした。
2012-11-11 01:37:41ですが、お客さんではなく、正規登録をした同級生になると、話が一変します。これは日本の社会学にも根深く関係することなのかもしれない。お客さんだった間は「タレント」のようにちやほやされていたのに、正式な同級生になると「外人」ということになり、周囲から好奇の目と違和感で迎えられました。
2012-11-11 01:38:45そして自分に対してからかったり攻撃的な言動に出る中には被爆者の子どもたちもいた。奇妙奇天烈ではありますがぼくは「被爆者に差別されるアメリカ人の子供」になってしまうこともありました。お父さんの国が原爆を落としていろいろな人が苦しんだことは、「はだしのゲン」で知っていました。
2012-11-11 01:40:05でも、なんでわしがその責任を取らんといかんのじゃ?言うてみぃや、われ!…という感じで、ぼくは攻撃されると広島弁で切り返していたのです。その後中国も広島ローカルで受験校に合格しますが、被曝した側からの腹いせというのか、強烈な違和感と、歴史の清算をぼくという個人に求めようとする気配…
2012-11-11 01:41:56進学した広島の修道中学では名物の習字の先生(今は故人)がいたのですが、彼は生存した被爆者であり、最初の授業からずっとぼくが気になって仕方がありませんでした。今の視点で思い返すと、動転していたと思います。教室で腕を生徒に見せて「この中には何千のガラス片が入っとる。ピカドンは憎い」
2012-11-11 01:43:37実際にピカドンでやられた時に、壁がどーんと落ちて来よって、ほんでわしだけ熱戦を浴びずに済んで助かったんじゃけど、周りは地獄じゃったけえの。そのうち体はなんとか動くようになったが、今でも医者が取り出せんぐらいこの腕の中には細かいガラスのかけらが無数に入っとるんど。でも生きとる。
2012-11-11 01:45:35…という話を一回だけして、その先生は普通の習字の先生に戻りました。でも、ぼくのことだけは気になって仕方がない。左利きなので習字の筆を握る手つきも「いなげなのう」ということになり、墨をふくんだ筆を左から右、上から下に引きずると、雰囲気が変わります。「こりゃなんじゃ」と。
2012-11-11 01:47:05「みみずがのたくっとるんかいの。おぉ?」と提出した和紙を持ち上げて透かして見せることも。…なんでわしだけ、この先生の目の敵にならんといけんのんや?そりゃ、パパの国がピカドン落としたんわ事実よ。ほいじゃけど、パパは被爆者の人たちを救う活動しとるじゃろうが。あいこじゃないんか?…
2012-11-11 01:48:27結局、3学期分、習字の授業は一番苦手でした。まあその他にも、校庭で揉みあいながら喧嘩をしていた相手の小柄な同級生が「おまえには恨みがあるんじゃ。わしのおじいちゃんは被曝…」まで言って、その場でけんかしながら、うわーん、と泣かれた時。…なんかわしが一番いけんいうことになっとるわい。
2012-11-11 01:50:25で、中学1年が終わりかけたお正月だったように覚えています。富山県から訪ねてきていた祖母が「右手でもきっと書けますよ」と、気が進まないぼくの右手に手を添えて、筆の動かし方を指導してくれました。もう中学生なのに子供みたいで恥ずかしかったけど、ある時点で手が動いて、「赤い太陽」の文字。
2012-11-11 01:52:21この祖母の遠戚である谷口輝子さんは、宗教法人「生長の家」開祖の妻でもある人でした。 http://t.co/jyi3tQah 生長の家の内部では「輝子先生」と呼ばれていた人。教団の教義は「やれば、できる」という内容を数千ページに展開したニュー・ソート系でアメリカの影響もあり。
2012-11-11 01:54:50おそらくどこかで生長の家や、そのルーツの一つになったニュー・ソート(New Thought)の「人間には無限の能力が潜伏している。心の鍵を開放して許し合えば、なんでも可能になる」というミームが祖母から受け渡されたのかもしれません。苦手だった被爆者の先生に心を開いた瞬間でした。
2012-11-11 01:56:20