織田軍勉強記
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敵を攻める時、ここに来るだろうと思う場所には出ず、敵に無駄骨を折らせ、ここは来ないと思うところに、不意に出てこそ勝利を得られる。相手の読み筋を外し、下の者から考えを見透かされないのが誠の大将である。(織田信長『明良洪範続篇』より) #織田軍勉強記
2012-10-24 13:28:58【平手政秀】延徳4年(1492)5月10日生、天文22年(1553)閏正月13日没。尾張志賀城主。 狛千代丸、中務丞。信長誕生とともに宿老となり、主に財政を担当した。天文12年(1543)5月、信秀の名代として上洛し、朝廷に御所の築地修理料千貫文を献上した。 #織田軍勉強記
2012-10-24 13:29:52また同17年には斎藤道三の娘と信長の結婚を成立させた。信秀死後における信長の傍若無人の言動を諫めて割腹したと言われるが、政秀長男の所有する駿馬をめぐる信長・政秀主従の不和がその遠因とも考えられる。 #織田軍勉強記
2012-10-24 13:30:19信長誕生前年の天文2年(1533)、尾張を訪れた公家の山科言継は、政秀邸の造作に目を見張り、数寄の座敷の見事さに驚嘆している。また、政秀は言継と和歌会を行うなど文芸にも造詣が深かった。62歳。法名は政秀寺殿功案宗忠大居士。墓所は政秀寺。 #織田軍勉強記
2012-10-24 13:30:44私の中の平手様は、とても面倒見の良い爺やって感じ。山岡荘八著・織田信長の中の平手様がそういう印象だったからかなー?何せ読んだのが十数年前なので、記憶が曖昧なのだが、やんちゃ坊主たちの面倒を根気よく見ていたいい人だと思う。器が大きくないとあんなこと出来やしない。 #織田軍勉強記
2012-10-24 13:38:29そんでもって、平手様の娘・お清(雲仙院)様は、信長公の弟・長益(有楽斎)様の御正室です。お子さんは9人。側室なし。ラブラブだったに違いないと妄想。 #織田軍勉強記
2012-10-24 13:41:48濃姫様のお話。
結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説、奥を取り仕切るだけの器量がなかったなどという評価がなされる事があったが、実際は信長の閨房における醜聞が一切表に出ずきちんと取り仕切られていたことから、→ #織田軍勉強記
2012-10-24 13:54:30決して無能な女性ではなく一正室多側室多愛妾多伽係という当時の奥制度をきちんと管理出来る女性だったと考えることもできる。(濃姫→ http://t.co/yPAkLWBoより抜粋) #織田軍勉強記
2012-10-24 13:56:18長可さんと安養院さん
うぃき先生には長可様と安養院様の間に子供がいたとは書いてないな…。なんであの本にはそんなこと書いてたんだろう……?(長可様のうぃきページ)→http://t.co/ZOmhI2Da #織田軍勉強記
2012-10-25 11:49:55んんん?この方のブログには男児がいたという言い伝えが書かれてますね… 。→http://t.co/nmncPeNu #織田軍勉強記
2012-10-25 11:55:42おおお!想像の域を超えないにしても、なんかホッコリする(*´∀`*) 長可様・安養院様→http://t.co/9gUTaZeb #織田軍勉強記
2012-10-25 12:02:07吉法師につけられた宿老たち(林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門尉・内藤勝介)を【四長(よんおとな)】と呼ぶそうです。
織田信長の四長→http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/g_0407.htm
織田家臣団→http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html
【青山与三右衛門尉】生年不詳、天文16年(1547)9月22日没。 実名は不詳。信長の誕生とともに宿老となるが、実績は明らかでない。天文2年(1533)、妙興寺と「一目散在の地」をめぐって係争する青山与三右衛門尉は同一人であろう。→ #織田軍勉強記
2012-10-25 16:51:09→同16年に、信長の父織田信秀に従って斎藤道三を美濃稲葉山城に攻めるが討死する。なお、天正7年(1579)6月20日に、信長の使者として伊丹に在陣中の滝川一益・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら五人衆に鷹などを届けた「青山与三」は子息であろう。 #織田軍勉強記
2012-10-25 16:56:52諱については、天文2年8月6日付の毛利小三郎に宛てた織田信秀及び「秀勝」の書状により、信秀の使者が「青山秀勝」という人物であることがわかる。与三右衛門と信秀との密接な関係に鑑みて、同一人の可能性が高いと思われる。→ #織田軍勉強記
2012-10-25 17:12:11信秀の重臣。『公記』によれば、信長に那古野城が譲られた時、その補佐として付けられた四家老の一人とされている。席次は林秀貞、平手政秀に次ぎ三番目。(以下略) #織田軍勉強記 (織田信長家臣人名辞典より)
2012-10-25 17:21:25【内藤勝介】生没年不詳。勝介は「庄助」ともあるから、「しょうすけ」と読むのであろう。 古渡村の人。織田家譜代の臣。天文2年(1533)8月13日、信秀より清洲滞在の飛鳥井雅綱・山科言継のもとへ遣わされた「内藤」は勝介かもしれない。→ #織田軍勉強記
2012-10-25 18:07:56→『公記』巻首には、信長が幼時、父信秀より那古野城を与えられた時、付属させられた「四長」の一人、林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門に次ぐ「四長」として登場する。→ #織田軍勉強記
2012-10-25 18:14:44