- donadona_No5
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@brikix ホウ・シャオシェンや相米慎二の長回しが典型ですが、その体験は観客に極度の緊張感を強いる。その緊張を緩衝するための、いわば「詐術」としてハリウッドを初めとする映画は「物語」を語る技術を蓄え続けてきた、と思うのです。
2012-12-10 04:40:13@brikix その最大の源流は、『ポチョムキン』のモンタージュだと思うのですが、ここではまったく異なる画面を無理矢理つなぎ合わせて、「時間の持続」から観客の気をそらしている。あるいは逆説的ですが、ヒッチコックの『ロープ』も、そういう詐術を味わえる作品だと思うわけです。
2012-12-10 04:43:23@brikix 翻って、「ポニョ」や「もののけ」に対してぼくが抱くのは、あまりに物語と葛藤していない、という不満です。ここでは、まったく違う画面が繋ぎ合わされることの異様さが快く忘れられている。それは八作さんの言い方で言えば「破綻」ということなのだろう、と思います。
2012-12-10 04:45:08@brikix 「破綻」の快さに、はたしてやすやすと乗ってしまっていいのだろうか? 「ポニョ」や「もののけ姫」を観ると、いつもそこに居心地の悪さを感じてしまう。ということなのでした。
2012-12-10 04:47:13@camiroi 釈迦から最も遠い身としては、私もまた個人的に、我が身にひきつけて考えるしかないことですが、私はつまり、破綻の快さ(そもそも、破綻が快い、という認識は、どれくらい共有されるものなのでしょうか)に乗ってしまっていいと、やはり思っているのだと思います。
2012-12-10 05:18:03@camiroi 『もののけ姫』が持っている、そこに唐突感を拭えないような形であれよあれよ、という間に話が転がっていく感じの「破綻」は、自分じゃどうにもならないことに遭遇して、できるかぎりのことをしよう、というモチーフに結実していると思いました。
2012-12-10 05:19:29@camiroi その意味では、仮にその映像が「物語」と格闘していないとしても、映画はすくなくとも現実とは、格闘しているのではないか。
2012-12-10 05:20:17@camiroi これは、映画を持ち帰った自分の現実に引きつけた、個人的な意見に過ぎないかも知れませんが、私にとっては、自分の人生に引きつけられるかどうか、のほうが、映画に求めるもののなかで、ずっとプライオリティが高いことだと思っているのです。
2012-12-10 05:20:26@camiroi この「現実」が、例えば宮崎駿と私でどれだけ同じであるかは、たぶんあんまり意味がなくて、少なくともあの当時の私の現実に対して、アクチュアルに対応する「破綻」を、『もののけ姫』は与えてくれた、そのことの恩が、あの作品への肯定的な感覚の理由になっていると思っています。
2012-12-10 05:21:19@brikix お返事、遅くなりました。たぶんぼくは、作品をある種の「形式」として観ることに、あまりに慣れすぎてしまっているのだろうと思います。作品を「ロマンティック」に観ることに対して、抜きがたい拒否感がある。これはたぶん、ぼくが文章を書くときの根っこなんだと思います。
2012-12-10 13:33:33@brikix もちろん八作さんのおっしゃってることもよくわかるのですが、感覚的にそこを避けてしまう。というか……。いずれにしろ、改めて読み直すと、えらく大仰な話をしてますねw
2012-12-10 13:35:06@camiroi ありがとうございます。大仰な話、大いにオーギョウ(OK)ではないでしょうか。自分の場合は、形式でものを見ることは(もちろん宮さんほど徹底したものではないかたちで)それはそれで自然にあって、しかしそこで判断を決めてしまうというときには、どこかでブレーキがかかります
2012-12-10 14:40:50@camiroi 形式は、主題との混淆の中で語るべきだ、みたいな、まあちゃちなモラルみたいなものだと思うのですが。ぼくは自分がロマンチックだという意識はあまりなかったのですが、だとすると、ロマンチックと形式の双方からの到達点として『坂道のアポロン』はあるのかもしれないですね。
2012-12-10 14:41:48