中上健次著『紀州 木の国・根の国物語』からの抜粋など
「これまでも新宮と覚しき土地を舞台に小説を書いたが、そこを征服する事の出来ぬ自然、性の土地だと思った事はなかった。・・
2012-12-14 11:00:49・・半島をまわる旅とは、当然、さまざまな自然とそれへの加工や反抗、折り合いを見聞きする旅である。観光用の名所旧蹟には一切、興味はない。私が知りたいのは、人が大声で語らないこと、人が他所者には口を閉ざすことである。」(中上健二『紀州 木の国・根の国物語』)
2012-12-14 11:00:54「紀伊半島は海と山と川の三つの自然がまじりあったところである。平野はほとんどない。駅ひとつへだてるとその自然のまじり具合がことなり、言葉が違い、人の性格は違ってくる。古座の空浜、天満の出腰、新宮のキツネ。
2012-12-14 11:14:59そうハヤシ言葉にあるが、古座の海では魚が獲れず貧乏で、天満は重い荷物を持つ仕事をするせいか腰がまがっていて、新宮はキツネのようにズルがしこい、ということだろう。三つの土地に共通するのは、船の出入りがあった事だろうか。」(前掲書)
2012-12-14 11:15:05「新宮とシングゥと呼ぶのは東京弁である。シング(原文ではグが強調の太文字、以下同様)、それが正しい。・・土地の者でシングゥなどと発音するものはいない。・・本宮もシングと同様、ホングである。・・ホング、シングがそうなら、那智も、ナチではないナチ(チが強調の太文字)である・・
2012-12-14 11:23:36新宮を、シングと発音すると、原初の響きがある。この国の歴史にも、この国のどの地図にも書き記されていない未開の、処女の、原初の土地が、紀伊半島、紀州、熊野の里に在った、そんな気にもなる。」(前掲書)
2012-12-14 11:25:23「材木商いの魅力とは、つまり悪の魅力であろう。悪とは、材木商らが山林地主をダマして山を安く買いたたくことでもなく、人夫らをアゴ先で安い労賃で使うことでもない。杉本氏の話をきいて、悪とは、樹木、材木を伐り倒し、売り買いするその行為なのだ、と思った。
2012-12-14 20:24:44水という自然、光と自然によって、樹木は生育する。樹木が、材木という商品になる為にはどれほどの年月と、自然の力と、人間の労力がかかっているか分からない。いや、単に商品として材木を見るのではなく、杉本氏が言うのは蓄積されて自然としてある樹木、材木である。
2012-12-14 20:27:03山に入って風に吹かれていると、心の中がひりひりする、一服しているとざんげしている気になる、そう元材木商の氏が言う言葉に、自然に向き合って自然を加工しようとする悪の痛みを感じる。材木は面白い。」(中上健二『紀州 木の国・根の国物語』)
2012-12-14 20:29:11「エリック・ホッファではないが、熟練した労働者は遊ぶように仕事をする。労働を呼吸する。私も以前に羽田空港で貨物の積み降ろしをやっていたので、腕の熟練が自由を生み出すのは分かっていた。未熟練が不自由を、不満を作り出す。」(前掲書)
2012-12-14 20:56:01「霊異と言えば、牛もイルカも、人間の変成したもの、霊異が起こった果てのものに私にはみえたのだった。いや鯨もそうである。だがそれは食べ物である事に変わりはない。人は食べ者に窮すれば人すら食らう・・。」(中上健二『紀州 木の国・根の国物語』)
2012-12-15 10:33:07「明さんは行商をして生計を立てている。・・その明さんが新興宗教に入ったのは二十年も前になる。・・・明さんが言い由子さんが言う信心、つまり新興宗教の体系化された教義によって、古座という土地すれすれに生きて在る事、抽象化する行為が強さなのだ、と思った。 (中上『紀州』)
2012-12-15 11:45:56(承前) 抽象化とは、一般化、普遍化ほどの意味である。二人の話をききながら考えたのは、海と山に閉じ込められ、川があるここで、一つの宗教がこの土地の地霊を慰藉しているということだった。私の眼には二人が、この土地のシャーマンにも巫女にも映る」(中上健二『紀州』)
2012-12-15 11:46:07「古座から海岸線へ行くと、姫、串本となる。確かに”風光明媚”なところである。・・観光はこの町の売り物ではある。だが、”観光”という言葉に、この紀伊半島に生まれ、日と水と風とを肌で感じ育った者は、神経を逆撫でされる。不快感がある。」(中上健二『紀州 木の国・根の国物語』)
2012-12-15 12:46:16「人斬り谷を、ヒトキリダニとは誰もが発音する。だが文字を持たない者が、ヒトギリダニを人斬り谷と文字を思い浮かべられるはずがない。それをヒトキンタニと聞き、そう語りつたえる。音便変化や訛りではない。「シタニー」をワーッと聞くのと同じ、その聴力である。その想像力である。 (中上健二)
2012-12-15 13:19:53承前:人斬り谷をヒトキリダニというより、ヒトキンタニと言う方が、人を斬る魂を、五感を持った人を人が斬る行為を存分に表していると思わないだろうか?「シタニー」という言葉が、単に、ワーッという怒声、威嚇音として取るのが、物の本質というものだ、とは思わないだろうか?(中上健二『紀州』)
2012-12-15 13:20:36「和深のテラの事を、訊ねて行った周参見の仏願寺の和尚さんは、こともなげに布教所だと言ったが、その和深の人らは、仏願寺の分寺だ、と言った。そして和尚さんがいた、と言うが、家々をバケツ持って米を入れてもらう和尚さんは毛坊主、あるいは堂守聖の類であろう。 (中上健次『紀州』)
2012-12-15 13:35:46「他力本願、それが分からない。住職に何度も何度もその他力をたずねたが、納得できない。理解できない。いやここで居なおれば、頭で理解することは可能であるが、その他力とは、自然という善も悪も、一切合財を生み、包むもののことではないのか。私はそう思い当った。 (中上健次『紀州』)
2012-12-15 14:08:33承前 だが、それなら、バケツを持って米をもらいに廻った毛坊主の宗教心と、テラを仏願寺の分寺だという和深の人らの宗教心を思い起こし、その他力を問いたいのである。ここで私が見たのは、体系化された宗教と、いま土から生み出された宗教との軋み、あるいは、その馴致の過程である」(中上『紀州』
2012-12-15 14:10:20「人がそのみにくい実態に顔をそむけ、手を加え、商品という装いにしてやる。いや、そこで抜いた馬の尻尾の毛が、白いものであるなら、バイオリンの弦になる。バイオリンの弦は商品・物であると同時に、音楽をつくる。音の本質、音の実体、それがこの臭気である。 (中上健次『紀州』)
2012-12-15 16:53:10承前) 塩洗いしてつやのないその手ざわりである。音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い、ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛を踏まえてある。 (中上健次『紀州』)
2012-12-15 16:54:30承前) 弦はだが快楽を味わう女のように震え、快楽そのもののような音をたてる。実際、洗い、脂を抜き、漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと、ヒュンヒュンと音をたてる。」(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』)
2012-12-15 16:55:31「雨の多いここで自然が樹木に作用し、良質の檜材を産出させると、製材所のにおいをかぎながら思い、自然の中心、自然の核をさぐりあてたいとあらためて思った。 (中上健次『紀州 木の国・根の国物語』)
2012-12-15 18:03:01